家康の政略に命運を左右された「娘と養女たち」
学び直す「家康」⑩
■婚家の命運とともに明暗が分かれた娘たちの生涯

伊達政宗
家康にもっとも警戒されたという政宗は当時、東北に大勢力を誇った。家康は伊達家にも政略結婚を仕掛け、自身の6男・忠輝と政宗の長女・五郎八姫を結婚させている。
家康は多くの子に恵まれ、娘は他家に嫁がせることで、大名や家臣と強い関係を築いた。それは実子だけでなく、養女を迎えて、他家に輿入れさせることもあった。ここでは、政略結婚の観点から、家康の娘や養女について、考えることにしよう。
天正4年(1576)、家康は長女の亀姫(かめひめ)を奥平信昌(おくだいらのぶまさ)に輿入れさせた。信昌は新城城(しんしろじょう/愛知県新城市)主だった。のちに、奥平氏は徳川家の譜代大名になったが、家康の婚姻政略はこれを嚆矢(こうし)とする。
天正11年、家康は次女の督姫(とくひめ)を相模の北条氏直(ほうじょううじなお/氏政/うじまさの子)に嫁がせた。2人の結婚により、徳川氏と北条氏の同盟が結ばれ、和平が実現したのである。天正18年に北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされたが、氏直は徳川氏との関係を考慮され、生き永らえることになった。
翌年、河内で1万石の大名となった氏直が亡くなったので、督姫は文禄3年(1594)に播磨を治める池田輝政(いけだてるまさ)と再婚した。その後、2人の間には、5人の男子が誕生した。輝政の父・恒興(つねおき)は、天正12年の小牧・長久手の戦いで、家康の軍勢によって討たれた。しかし、この婚姻により、両者は固い絆で結ばれたのである。
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦で、輝政は大いに軍功を挙げ、播磨姫路52万石の大名になった。その5年後、家康は秀忠の養女(榊原康政/さかきばらやすまさ/の娘)を利隆(としたか/輝政の長男)のもとに嫁がせた。こうして両家は、さらに強い関係を結んだのである。
秀吉死後の慶長3年、家康は、秀吉が定めた「掟(特に無断で婚姻を進めてはならないこと)」を破り、私婚を進めた。家康は、秀頼の後見人である五大老・五奉行を無視し、ほかの大名家との婚姻を行ったのだ。その婚姻相手(家康の養女に限る)は、次のとおりである。
①氏姫(うじひめ/小笠原秀政/おがさわらひでまさ/の娘)と蜂須賀至鎮(はちすかよししげ/蜂須賀家政/いえまさ/の嫡子)
②満天姫(まてひめ/松平康元/まつだいらやすもと/の娘)と福島正之(ふくしままさゆき/福島正則/ふくしままさのり/の養子)
蜂須賀氏、福島氏は秀吉に早くから従っており、「秀吉子飼いの大名」だった。家康は婚姻関係を通して、その縁故の鎖を断ち切りたかったのであろう。2人と良好な関係を保つことには、大きな意味があった。
また、家康は石田三成に対抗すべく、黒田長政(くろだながまさ/官兵衛/かんべえ/の子)を味方に引き入れようとした。もともと長政の妻は、糸姫(いとひめ/蜂須賀正勝/まさかつ/の娘)だった。しかし、家康は栄姫(えいひめ/保科正直/ほしなまさなお/の娘)を養女に迎えると、慶長5年6月に長政に輿入れさせた。その際、長政は糸姫と離縁したという。
- 1
- 2