合戦の交渉時にも活躍した家康の「側室」たち
学び直す「家康」⑦
■多くの側室の中には特別な扱いを受ける女性も

八幡岬公園(千葉県勝浦市)に立つお万の方の石像。紀州徳川家・始祖となる頼宣、水戸徳川家・始祖となる頼房という御三家の始祖をふたりも生んだ側室である。
家康には、多数の側室が存在したといわれている。以下、特筆すべき側室を取り上げてみよう。
小督局(おとくのつぼね)は、天文17年(1548)に永見貞英(ながみさだひで)の娘として誕生した。「おこちゃ」と称されている。そもそもは築山殿に仕えていたが、家康の手付となり、天正2年(1574)に秀康(ひでやす)を生んだ。元和5年(1619)、越前北庄(えちぜんきたしょう/福井市)で病没した。享年72。
西郷局(さいごうのつぼね)は、天文21年に戸塚忠春(とつかただはる)の娘として誕生した。西郷局は、三河の武将・西郷義勝(さいごうよしかつ)と結婚したが、のちに死別。その後、家康の側室となり、秀忠(ひでただ)、忠吉(ただよし)という2人の男子に恵まれた。天正17年(1589)に亡くなった。享年38。
於茶阿(おちゃあ)の方は、生年不詳。最初は、遠江国金谷村(とおとうみのくにかなやむら/静岡県島田市)の鋳物師(いものし)の後妻だったといわれている。土地の代官が於茶阿の美貌に目がくらみ、夫を殺害して彼女を妾(めかけ)にした。しかし、於茶阿は代官を嫌い、鷹狩りにやって来た家康に代官の非法を訴えた。結果、代官は死罪となり、於茶阿は家康の側室となったのである。
天正20年には、忠輝(ただてる)、文禄3年(1594)に松千代を生んだ。於茶阿は政治力を持ち、強い発言権があった。しかし、忠輝はのちに失脚。元和7年に病没した。
お亀(かめ)の方は、正法寺の志水宗清(しみずむねきよ)の娘だったといわれている。もとは竹腰正時(たけこしまさとき)の妻だったが、死別した。その後、石川光元(いしかわみつもと)の側室となったが、離縁。文禄3年に家康の側室となった。文禄4年に仙千代(せんちよ)、慶長5年(1600)に義直(よしなお)を生んだ。
お亀の方は、御陣女郎(ごじんじょろう)であったといわれている。彼女は御陣女郎として家康に扈従(こじゅう)すると、それを縁にして洛西に住む桂女たちが、彼女を慕って大勢陣中へ押し寄せたという逸話がある。本来、桂女は行商人であったが、のちに性的な仕事に携わるようになった。
お梶(かじ)の方は、天正5年に遠山綱景(とおやまつなかげ)の娘として誕生した。家康の側室となり、慶長12年に市姫(いちひめ)を生んだ。市姫は、家康の最後の子だったが、4歳で亡くなった。寛永19年(1642)に病没した。享年65。
お梶の方には、ユニークな逸話がある。ある日、家康が家臣と歓談していたとき、一番おいしい食べ物は何であるかが話題になった。家臣らはいろいろ食べ物の名を挙げたが、家康はお梶の方にも尋ねてみた。
すると、お梶の方は「塩」であると答えた。続けて、塩がなければ料理はおいしくならず、入れすぎるとまずくなると説明した。これを聞いた家康は、「男であれば、良い大将になったのに」と嘆いたと伝わる(『故老諸談』)。
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