天下人・家康の「人柄」が伝わる4つの逸話
学び直す「家康」⑥
■懐が深く反逆した家臣も許す

岡崎公園(愛知県岡崎市)にある「しかみ像」。モチーフの肖像画は、三方ヶ原の大敗後に描かれたと言われてきたが、裏付ける史料は発見されていない。
家康は懐が深く、自身に反逆した家臣であっても、許す寛容さがあった。それは、「われ、素知らぬ体(てい)をし、能く使いしかば、みな股肱(ここう)となり。勇巧顕(ゆうこうあらわ)したり」という言葉にあらわれている。
三河一向一揆が勃発した際、家康に反旗を翻した夏目吉信(なつめすしのぶ)は、一揆鎮圧後に許された。吉信は、その恩義に報いるため、三方ヶ原の戦いで家康の身代わりになり討ち死にを遂げている。
本多正信(まさのぶ)も三河一向一揆に加担し、徳川家中から放逐されたひとりだ。その後、大久保忠世(ただよ)の仲介もあって徳川家に帰参。家康の股肱の臣として活躍し、江戸幕府で重きを置かれたのである。
こうした家康の寛容さは、家臣の結束を強めたといえる。
■一方でけっこう根に持つ性格だった?
家康は懐の深さを示す一方、根に持つタイプだったという。
家康の子・信康(のぶやす)に謀反の嫌疑が掛かったとき、織田信長は真偽について、酒井忠次(さかいただつぐ)に問い質すと、あっさり認めた。後年、忠次が家康に息子の将来を頼んだ際、「お前でも子どもが可愛いのか」と皮肉った。忠次は何も言えず、その場から退出したという。
また孕石元泰(はらみいしもとやす)が今川家家臣だったとき、隣家が家康の屋敷だった。家康は鷹狩りを好んでいたが、飼っていた鷹は、元泰の家にたびたび糞や獲物を落とした。その都度、元泰は家康に苦情を申し入れた。
のちに武田氏家臣となった元泰は、第二次高天神(たかてんじん)城の戦いで捕らえられ、そのときの恨みで、家康から切腹を申し付けられたという。
■縁起を担いで江戸入りをやり直す
北条氏滅亡後の天正18年(1590)7月18日、家康は晴れて江戸城に入城したことが明らかである(『家忠日記』)。しかし、家康の江戸入りは、同年8月1日とされている。
それはなぜなのか。一説によると、7月18日は日柄が良くなく、秀吉の命に応じて慌ただしく江戸入りしたこともあり、家康は改めて8月1日(八朔/はっさくの日)に江戸に入り直したといわれている。もともと八朔は、鎌倉時代頃から行われた、農民が収穫の無事を願う儀式に由来する。
かつて甲斐入りを先導した旧武田家臣を先頭に、全員が白帷子(しろかたびら)で江戸入りした。家康が江戸入りした八朔の日は、江戸幕府にとって最大の祝日となったのである。
■ピンチになると爪を噛む
家康の性格は、神経質で短気な一面があった。
歴史小説などでお馴染みなのは、家康が爪を噛むシーンである。家康は戦いで苦戦したり、状況が不利になったりすると、親指の爪を噛む癖があった。ときには強く噛み過ぎて、血が出ることもあったと伝わる。
家康とその家臣団の事績を記した『改正三河風土記』などによると、関ヶ原の戦いの際、戦いが有利に進まなかったので、家康が思わず爪を噛んだという。この逸話は、その好例であろう。
また家康は戦闘の前、采配を取る手で鞍の前輪を叩く癖があったといわれている。そのため、家康の右手の指は三本が固まってしまい、伸ばすのが困難になったと伝わっている。
監修・文/渡邊大門