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家康が見せた「父親」としての顔

「歴史人」こぼれ話・第35回

複雑な経緯を経て悲劇に至った嫡男信康

JR静岡駅にある徳川家康像。関東に移封される前の、五カ国領有時代の家康の姿に風格が漂う。

 徳川家康(とくがわいえやす)には多くの子女がいたが、父として子にどのように接していたのか。家康の嫡男は松平信康(まつだいらのぶやす/母は築山殿/つきやまどの)だが『三河物語』(江戸時代初期の旗本・大久保彦左衛門の著作)は、天正5年(1577)の逸話として、次のような話を載せている。

 

 武田勝頼(たけだかつより)との戦において、家康軍は退却を余儀なくされるのだが、信康はその時、父・家康に向かい「これまでは我が軍は敵に向かっていたので、私が先に進んでいましたが、これからは敵を背にして引き上げることになりましょう。よって先ず、上様(家康)がお引き上げください。どこに、親を置いて、先に引き上げる子がおりましょうや」と言ったという。

 

 それに対し、家康は「倅(せがれ)は訳の分からぬことを言う。そなたが早々に引き上げよ」と反論。両者譲らず、押し問答を繰り広げた。それでも、信康は自説を曲げなかったので、根負けした家康はついに先に引き上げた。これは、お互いのことを思いやる良き親子ということができる逸話だろうが、家康としては「ここで嫡男に何かあっては一大事」との想いもあったのだろう。

 

 しかし、周知のように、その2年後、家康は信康を切腹に追い込むこととなる。いわゆる「信康事件」の経緯はここでは省くが、家康は信康を殺すことを決意した際、「素晴らしい器量の息子を持ち、私の跡を継がせようと考えていたのに、このように先立たせることは、私の恥であり、とても残念なことだ」(『三河物語』)と語ったという。

 

 これまでは、織田信長(おだのぶなが)が家康に信康の切腹を要求したと考えられてきたが、近年では、家康と信康の間に対立があり、それが最終的に悲劇に繋がったと言われている。しかし、たとえ、そうであったとしても、嫡男を失うということに変わりはなく、家康は前述のような感情を抱いたのではなかろうか。

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濱田浩一郎はまだこういちろう

歴史学者、作家。皇學館大学大学院文学研究科国史学専攻、博士後期課程単位取得満期退学。主な著書に『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)、『北条義時 鎌倉幕府を乗っ取った武将の真実』(星海社)、『「諸行無常」がよく分かる平家物語とその時代』(ベストブック)など。

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