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家康が一番隊を志願した「姉川の戦い」

史記から読む徳川家康⑮


4月23日(日)放送の『どうする家康』第15回「姉川(あねがわ)でどうする!」では、姉川を挟んで浅井・朝倉連合軍と対峙した徳川家康(とくがわいえやす/松本潤)の苦悩が描かれた。理不尽な織田信長(おだのぶなが/岡田准一)より、義を重んじる浅井長政(あざいながまさ/大貫勇輔)に味方したい家康の選択に、家臣の間でも意見が分かれたのだった。


織田信長と浅井長政との間で揺れる

滋賀県長浜市に流れる姉川。姉川の戦いは大軍同士が正面からぶつかり合った合戦として知られるが、近年は浅井・朝倉連合軍の奇襲戦から始まったとする説も浮上している。

 金ヶ崎(かねがさき)からの撤退戦をかろうじてくぐり抜けた徳川家康は、すぐさま軍勢を整えるよう織田信長に言い渡される。裏切り者の浅井長政を討つとの将軍の命だ。

 

 切り取ったばかりの領地である遠江(とおとうみ)の様子が気がかりな家康だったが、いったん三河にある居城の岡崎城に帰ってまもなく、再び出陣した。

 

 信長率いる幕府軍は、姉川を挟んで浅井・朝倉連合軍と対峙。家康は、朝倉軍と戦う配置となった。

 

 そんななか、家康は敵方となった浅井長政から、共闘して信長を討つ誘いを持ちかけられた。まるで家臣であるかのように政策に口出しをしてくる信長に反発心を覚える家康は、長政の誘いに乗る方に気持ちが傾いていた。家臣の間も意見が分かれる。

 

 そこへ、信長の陣から家康の陣に銃弾が撃ち込まれた。家康の決断を促すものだ。気持ちの揺れる家康だったが、老臣・石川数正(いしかわかずまさ/松重豊)の言葉に背中を押され、信長方として戦うことを決意。出撃して、浅井・朝倉連合軍撃破の一翼を担った。

 

 合戦が終わると、家康は新たな拠点となる遠江に移ることになった。信長の指示通り、これまでの居城・岡崎城は息子の信康(のぶやす/寺嶋眞秀)に譲り、家康は浜松庄(はままつのしょう)に入ることにしたのだ。遠江の領民はかつての今川支配を知る者ばかりで、今川氏を裏切った家康に対し皆、険しい顔を向けるのだった。

 

家康の奮戦が姉川の戦いの勝利をもたらした

 

 1570(元亀元)年430日、織田信長は浅井長政の突然の裏切りに直面し、京都に撤退した(『言継卿記』)。出陣した際は3万の軍勢だったが、京都に撤収した頃には2000名あまりの死傷者を出していたという(『多聞院日記』)。

 

 同年53日、家康は松永久秀(まつながひさひで)らとともに信長に面会。この時、信長から食事を振る舞われている(『言継卿記』)。

 

 同年59日、信長は岐阜に戻るために京都を出発(『信長公記』)。同月13日には永原城(滋賀県野洲市)に立ち寄っている(『言継卿記』)。浅井長政の呼びかけに応じた六角義賢(ろっかくよしかた)の挙兵により岐阜へのルートを阻まれたため、やむなく避難したようだ。

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小野 雅彦おの まさひこ

秋田県出身。戦国時代や幕末など、日本史にまつわる記事を中心に雑誌やムックなどで執筆。近著に『「最弱」徳川家臣団の天下取り』(エムディエヌコーポレーション/矢部健太郎監修/2023)、執筆協力『歴史人物名鑑 徳川家康と最強の家臣団』(東京ニュース通信社/2022)などがある。

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