家康も撤退を知らされていなかった「金ヶ崎の退き口」
史記から読む徳川家康⑭
4月16日(日)放送の『どうする家康』第14回「金ヶ崎でどうする!」では、織田信長(おだのぶなが/岡田准一)に従い、越前の朝倉義景(あさくらよしかげ)討伐に従軍した徳川家康(とくがわいえやす/松本潤)の様子が描かれた。一方、信長に協力するはずだった浅井長政(あざいながまさ/大貫勇輔)は、謀反を決意。長政の企(たくら)みを知らせるべく、お市(いち/北川景子)の侍女である阿月(あづき/伊東蒼)は、家康のもとへ走った。
浅井長政の謀反が露見する

福井県敦賀市に立つ金ヶ崎城の古戦場碑。金ヶ崎城は南北朝時代にも新田義貞の嫡男・新田義顕(にったよしあき)らによる合戦が行なわれた場所としても知られる。
織田信長率いる幕府軍は、越前の朝倉義景征伐のため出陣。徳川家康も信長の要請を受け、付き従った。
北近江の浅井長政の軍を含めれば、幕府軍は4万に膨れ上がる。対する朝倉義景の軍勢は1万5000と見込まれ、勢力差から見れば幕府軍の圧勝は間違いないものと思われた。
そんななか、拠点である一乗谷(いちじょうだに)を出て、朝倉勢が幕府軍の布陣する金ヶ崎(かねがさき)に向かっているとの知らせが届く。籠城より出陣を選んだ義景の行動に一同が首をひねるなか、信長の家臣・明智光秀(あけちみつひで/酒向芳)は、血迷った行ない、とさして重視しない様子だ。ところが、家康は妙な胸騒ぎを覚えていた。長政が裏で義景と手を結んでいるのではないか、と疑っていたのだ。
さっそく信長に進言した家康だったが、激怒されただけでまるで相手にされない。信長は長政を信じ切っていた。
そこへ、長政に嫁(か)した信長の妹・お市の侍女である阿月が徳川軍の陣に駆け込んでくる。長政が裏切ることを伝えるために、決死の思いで北近江から金ヶ崎に走ってやってきたのだった。
家康のみならず、妹からも訴えがあったことで、信長も耳を貸さないわけにはいかなくなった。さっそく信長は木下藤吉郎(きのしたとうきちろう/ムロツヨシ)に殿軍(でんぐん)を命じ、退却の準備に入った。
藤吉郎は、この任務が死と隣合わせであることを悟った。そこで、下衆な脅しをかけて、家康を巻き込もうとする。
家康は、秀吉の脅しではなく、阿月の命を賭(と)した行動に報いようと、藤吉郎とともに殿軍に参じることを決意した。
信長、秀吉、家康、光秀が顔を合わせた金ヶ崎
1570(永禄13)年4月20日に織田信長は越前(現在の福井県嶺北部および嶺南部のうち若狭を除いた東部地域)に向けて京都を出発した(『信長公記』『言継卿記』)。織田軍は琵琶湖西岸を北上し、同月25日には敦賀に着陣。天筒山(てづつやま)の城(福井県敦賀市)の攻撃を開始した(『信長公記』)。
なお、この出陣中に元号が永禄から元亀に改元されている。
天筒山城攻めには家康も参戦(『徳川実紀』)。織田・徳川連合軍は敵の首1370を討ち取るなどして城を攻め落とし(『家忠日記増補』)、さらに北上を続け、翌26日には金ヶ崎城(福井県敦賀市)を陥落させた(『信長公記』『東照宮御実紀』)。
ここからいよいよ木ノ芽峠(福井県敦賀市と南越前町との境)を越え、朝倉氏の拠点とする一乗谷(福井県福井市)に攻め込む予定だったが、ここでもたらされたのが、浅井長政の裏切りの知らせであった(『信長公記』)。
織田家と浅井家はれっきとした縁戚であり、北近江の支配も許しているのだから、長政に不満があるはずがない。だから「虚説に違いなし」と、当初、信長は取り合わなかったらしい(『信長公記』)。
もし長政の裏切りが事実だとしたら、信長の軍勢は前後に挟まれ、絶体絶命の窮地に立たされることになる。
その後も、信長のもとに続々と「浅井氏裏切り」の報告が入り、いよいよ信長も信じざるを得なくなったため、「是非に及ばず」と、やむなく退却を命じることとなった(『信長公記』)。
この時、信長は木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉/とよとみひでよし)を金ヶ崎城に残した上で、京都への撤退を開始(『信長公記』)。藤吉郎のほか、明智光秀や池田勝正(いえだかつまさ)なども、信長の命で金ヶ崎城に残されたという(「一色藤長書状」)。
ドラマの中では家康が信長に撤退を進言したように描かれているが、実際には急遽の作戦変更だったため、家康に知らされることのないまま、信長は同月28日に陣を引いたらしい(『東照宮御実紀』『落穂集』)。
金ヶ崎城に残された藤吉郎の軍勢はわずか700騎(『東照宮御実紀』)。そこで藤吉郎は家康の陣を訪ね、「このたびの難儀、御助力給わるべし」と直々に依頼したという(『三河後風土記』)。どうやら家康は、この時に初めて、信長が撤退したことを知らされたようだ。
家康は申し出を快諾し、撤退戦を藤吉郎とともに臨んだ。そのさなか、藤吉郎の軍勢が朝倉方の大軍に囲まれ、窮地に立たされた(『東遷基業』)。
家康は「秀吉が頼みにきたにもかかわらず捨てていったのでは、二度と信長に合わす顔がなくなる。進め者ども」と果敢に下知(げじ)して、自ら敵陣に鉄砲を撃ちかけ、敵がひるんだ隙に撤退を成功させたという(『東照宮御実紀』)。
椿峠(福井県美浜町)というところまで撤退を完了した際、秀吉は家康と面会。「自分の殿軍の成功は、みなあなたの力によるものです」と感謝した(『徳川実紀』)というが、いわゆる「金ヶ崎の退(の)き口」と呼ばれるこの撤退戦に家康が参戦したとする一次史料は現在のところ、見つかっていない。
なお、同月28日に撤退を始めた信長は、朽木(滋賀県高島市から京都府京都市へ越える山道)を越え、30日には京都に撤収している(『信長公記』『言継卿記』)。