信長との「同盟強化」を目的とした家康の上洛
史記から読む徳川家康⑬
4月2日(日)放送の『どうする家康』第13回「家康、都へゆく」では、上洛(じょうらく)した徳川家康(とくがわいえやす/松本潤)の様子が描かれた。家康は、将軍に就任した足利義昭(あしかがよしあき/古田新太)をはじめ、義昭の家臣・明智光秀(あけちみつひで/酒向芳)や、織田信長(おだのぶなが/岡田准一)の同盟相手である浅井長政(あざいながまさ/大貫勇輔)らと対面を果たすこととなった。
将軍・足利義昭との対面のために上洛する

京都府京都市に立つ旧二条城跡の石碑。旧二条城は織田信長が新たな将軍となった足利義昭のために造営した将軍御所で、二重の堀や三重の天主が備わる堅固な城郭だったと伝わる。跡地からは約100体の石仏が発見され、石垣に使われていたことが分かっている。
織田信長の尽力により、足利義昭が次期将軍に就任した。
信長の招きにより、将軍にお目通りのため上洛した徳川家康は、大出世を喜ぶ家臣たちの浮かれ具合とは裏腹に、慣れない挨拶回りで多忙を極め、体調を崩すほどだった。
そんななか、家康は信長に酒宴に招かれる。そこには、信長の妹であるお市(いち/北川景子)と政略結婚し、織田家と同盟を結んだ北近江の浅井長政の姿があった。信長は、新たな将軍となった義昭の手足となり、乱れた世を本来の「ありすがた」に戻す、と二人の前で宣言。二人に協力を求めた。
家康は、優しい振る舞いを見せる長政に好感を持った。その一方、家康を「官位を金で買った田舎者」と罵(ののし)る十五代将軍・足利義昭や、義昭の家臣である明智光秀には違和感を覚えていた。
その後、三河に戻ろうとした家康は、信長に引き止められる。将軍と信長に反抗的な態度をとる越前の朝倉義景(あさくらよしかげ)を成敗するため、共に出陣せよという。
「天下を一統する」という信長に、家康は言葉を失ったのだった。
織田信長と将軍・足利義昭との関係は悪化していた?
家康の嫡男・信康(のぶやす)と、信長の娘・徳姫(とくひめ)との婚儀が行なわれたのは、1567(永禄10)年5月27日のことだった(『家忠日記補任』)。この結婚は1563年(永禄6)年に決まっていたもので、織田と徳川(当時は松平)の同盟を背景にしている。結婚当時、信康と徳姫の二人は同い年で10歳にも満たない年齢だったが、夫婦仲は良好だったといわれている。
翌1568(永禄11)年9月26日、織田信長が足利義昭を奉じて入京する(『言継卿記』)。同年10月18日に義昭は将軍宣下(せんげ)を受け、十五代室町幕府将軍に就任(『公卿補任』)。28日には、信長は岐阜に帰った(『信長公記』)。
ところが翌1569(永禄12)年1月10日、信長は再び入京している(『言継卿記』)。信長が京を離れた隙をついて、三好三人衆や斎藤龍興(さいとうたつおき)らが当時、義昭が御所としていた本圀寺(ほんこくじ/京都府京都市)を取り囲み襲撃におよんだため、救援に駆けつけたのである(『信長公記』)。
急行した信長の来着により事なきを得たが、それから4日後となる同月14日に、信長は「殿中御掟(でんちゅうおんおきて)」と呼ばれる掟を将軍・義昭に突きつけている(「仁和寺文書」)。
これは、将軍としての義昭の権力の範囲を限定的にすることを明示したもので、将軍が私的に大名の家臣に接触したり、裁判に関与したりすることを禁止する内容だった。就任早々に義昭が将軍として政治的に動き出したことで、信長が制限に動いたものと見られている。これを両者の不和の端緒と見る向きがある一方、幕府の運営に対して信長と義昭が相互に確認し合った結果とする見方もある。
同年2月2日、信長は二条御所の造営を開始する(『言継卿記』)。「きちんとした将軍御所がないと不都合だ」という信長の発案によるもので、二条にあった古い屋敷を改築するものだった(『信長公記』)。
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