武田信玄との三方ヶ原の戦いで徳川家康には本当に勝ち筋はなかったのか?
徳川家康の「真実」⑩
武田信玄との圧倒的戦力差の前に徳川家康が大敗した戦いとして知られる三方ヶ原の戦い。この戦いで本当に家康方に勝ち目はなかったのだろうか?
■まんまとおびき出された徳川家康軍 既に武田軍は万全の構え

静岡県浜松市にある、三方ヶ原古戦場碑。三方ヶ原墓園の入り口に立てられている。
永禄12年(1569)5月、家康は今川氏と和睦し、懸川城(掛川市)を開城させた。しかし、徳川・今川の和睦の動きに、駿河を攻めあぐねる武田信玄(たけだしんげん)は不信感を募らせていた。両者の和解が成立すれば、信玄は窮地に陥る可能性があるからだ。この家康の動きを信玄は遺恨に思ったであろう。家康は遠江一国をほぼ手中にした。駿府から撤退した信玄は、5月には武蔵国などに侵攻し、後北条氏(ごほうじょうし)を撹乱する(8月に再度、侵攻し、10月には小田原城を包囲することになる。その後、退却)。
後北条氏の領国をかき乱した後、その年の12月に、信玄は再び、駿河に攻め入った。信玄は駿河の後北条方の諸城を攻略し、駿府を再度、占領する。
一方、家康は信玄が許容できない挙に出ていた。越後の上杉謙信(うえすぎけんしん)と接近し、同盟を結ぼうとしたのだ。この動きは、永禄12年初頭から始まったと思われるが、武田重臣・秋山虎繁(あきやまとらしげ)の遠江(とおとうみ)侵攻が契機になったとも言われている。
元亀元年(1570)10月には、徳川・上杉の同盟が成立する。家康は信玄と断交することを上杉に誓う。そして、信長と謙信が懇意になるよう、家康が仲介することを約束。武田と織田の縁組が破談になるよう、信長を諌めるとまで家康は言う。
敵対していた武田氏と後北条氏であったが、武田氏に対し強硬な北条氏康(ほうじょううじやす)の死(1571年10月)により、接近する。氏康の子・北条氏政(うじまさ)は、上杉謙信との同盟を破棄し、信玄と結ぼうとしたのだ(氏政の正室は信玄の娘であった)。こうして、武田と北条の同盟が年末までに成立。これで、信玄は西方への軍事行動が容易になった。
元亀3年10月3日、信玄は甲府を出陣、家康の領国に侵攻することになる。信玄出兵の理由は「三ヶ年の鬱憤(うっぷん)」を晴らすことであった。家康が氏真と和睦したことや、宿敵・上杉氏と同盟を結んだことが信玄の家康に対する恨みを倍加させたと言えよう。信玄の本隊は、駿河から遠江に入り、高天神城の小笠原氏を降す。続いて、信玄は二俣城(ふたまたじょう/浜松市)に軍を進め、これを攻める(11月上旬)。武田軍は城の水の手を断つ戦法に出たため、籠城する者達は、天竜川から水を汲み上げることになる。武田軍はそれを妨害するため、筏を組んで、上流より流し、釣瓶縄(つるべなわ)を切ったという。二俣城主の中根正照(なかねまさてる)はじめ籠城方は奮戦するが、11月末に降伏した。
信長は信玄の遠江(とおとうみ)侵攻を知ると、激怒した。信長は信玄の要望により、越後の上杉謙信との和睦に向けて動いていた。にもかかわらず、信玄の暴挙。信長は謙信への書状で、信玄の行いを無道と断じ、侍の義理を知らない、恨みは尽きることはないと痛罵する。「信玄退治」に燃える信長は、10月下旬には、浜松の家康のもとに、家臣の簗田広正(やなだひろまさ)を状況偵察のため派遣。11月には、平手汎秀(ひらてひろひで)・佐久間信盛(さくまのぶもり)・水野信元(みずののぶもと)ら3千の援軍を家康のもとに遣わす。信玄は、信長の援軍派遣の動きを掴んでいた。
12月22日、信玄の軍勢は、家康の居城・浜松城の近くにまで迫る。家康は出陣し、武田軍と「一合戦しよう」と告げるも、重臣たちは「武田軍は3万。信玄は熟練の武者でもあります。対する我が方は8千」(『三河物語』)と忠告。それでも家康は「多勢が自分の屋敷の裏口をふみ破り通ろうとしているのに、咎(とが)めないものがあろうか。戦は多勢無勢で結果が決まるわけではない。天運のままだ」と武田軍との決戦を選ぶ。

徳川軍と武田軍の戦力比較
『信長公記』には、二俣城を落とした信玄は「堀江の城へ打ち廻らせ相働き」とある。大澤氏が籠る堀江城(浜松市)を信玄は攻略しようとしたという。堀江城を攻略すれば、浜名湖の水運を掌握できる。そうなれば、物資が浜松に送れなくなるので、浜松城での籠城は困難となる。よって、信玄は堀江城を攻撃しようとした。家康は何としてもそれを阻止しなければならない。家康は無闇に戦いを挑んだわけではないのだ。
家康が浜松城から出陣し、接近していることを知った信玄は、家康軍との戦いを決意する。武田軍は魚鱗(ぎょりん)の陣、徳川軍は鶴翼(かくよく)の陣をしき、三方ヶ原で激突した。
信玄は足軽の者達に、小石を投げさせる。『三河物語』は、徳川軍が武田軍の一陣・二陣を打ち破り、信玄本陣に殺到したと記す。しかし、多勢に無勢で徳川軍は敗退したという。『信長公記』は、織田方の武将の奮戦を記した後で、家康の逃亡の有様を記す。ただ一騎で退く家康。敵は先回りして退路を断とうとするが、家康は見事な弓術により、敵中を突破した。
『三河物語』では、家康は味方の小姓を討たせまいとして、味方を固まらせて、退却したという。家康より先に城に帰った者のなかには「家康戦死」のデマを流すものもいた。が、家康が無事に帰城すると、それらの者は気まずいのか、逃げ隠れたとされる。
信玄は浜松城を力攻めにせず、刑部(おさかべ/浜松市北区)に向かい、越年。その後、三河国に進軍した。家康三大危機の一つ「三方ヶ原の合戦」はこうして収束する。小勢の家康軍が大軍の武田に勝つ見込みはなかったであろう。
監修・文/濱田浩一郎