徳川家康へ脅威を与え続けた武田信玄の狙いとは?
徳川家康の「真実」⑪
徳川家康に常に脅威を与え続けた強敵・武田信玄。その信玄の狙いはどこにあったのだろうか?
■今川方のみならず隣国から別の脅威が迫る

JR甲府駅にある武田信玄公銅像。甲府駅のシンボルとして親しまれている。
永禄4年(1561)に今川氏から自立を果たした徳川家康(とくがわいえやす)にとって、隣国信濃(しなの)を領国とする武田信玄(たけだしんげん)は、当初から脅威であった。家康が、三河(みかわ)の今川方を攻撃し始めると、今川氏真(いまがわうじざね)は同盟国の武田信玄に援助を求めた。信玄はこれを了承し、共同で三河攻めの協議を始めたことが確認できる。ただ家康にとって幸いであったのは、永禄4年は、9月にかの第4次川中島合戦があった年にあたり、信玄が総力を挙げて三河に軍勢を差し向けることなどできるはずがなかったからである。
それだけでなく、今川氏真が本気で三河攻めを行う意向を示さなかったことも、家康にとって願ってもないことであった。家康は、東三河の今川方と交戦を続けていたものの、決して戦局は芳(かんば)しいものではなかったからである。吉田城の大原資良(おおはらすけよし)、田原城の朝比奈元智(あさひなもととも)を始め、牛久保城の牧野成定(まきのなりさだ)も難敵であり、家康は攻めあぐねていたのだった。
それでも1度だけ、氏真が三河に軍勢を進めてきたことがあった。それは、永禄5年2月のことである。実は2月4日、家康は上之郷城(かみのごうじょう)を攻略し、鵜殿長照(うどのながてる)を討ち取り、その2人の息子を捕縛することに成功していた。鵜殿は、今川一族と伝えられており、その敗死は氏真にとって重大な事態といえた。氏真が初めて三河に出陣したのは、鵜殿救援のためであった可能性が高い。だが上之郷城は陥落し、氏真も出陣したものの、めぼしい成果を挙げることが出来なかった。そのため氏真は、武田信玄を頼り、三河攻略に本腰を入れ始めた。武田の脅威が迫りつつあった。
■武田信玄と今川家の不協和音と徳川家康の調略
ところが、氏真と信玄の協議は、なかなか進捗しなかった。今も残る信玄宛の氏真書状を読むと、氏真の方から信玄に三河攻めの支援を要請していたにも関わらず、武田からの書状に返信を送るのを怠るなど、外交上無礼と取られたり、煮え切らない態度とみなされても仕方のないありさまだった。
だが永禄6年4月、氏真は全領国に三河攻めの戦費調達のための臨時課税(三州急用/さんしゅうきゅうよう)を通達した。これは今川領国を混乱させたが、氏真がいよいよ本気になったと、誰もが思ったことだろう。実際に、三河では親今川方の酒井忠尚(さかいただなおら)が家康から離叛(りはん)し、自分の持ち城に籠もって抵抗を開始し始めた。これは氏真に呼応した動きとみて間違いない。
そして武田信玄もまた、三河侵攻に向けた調略に着手した。彼は、信濃伊那(いな)の大嶋城に配置していた重臣秋山虎繁(あきやまとらしげ)に命じ、下条信氏(しもじょうのぶうじ/伊那衆、吉岡城主)に対し、すでに三河で獲得していた内通者が派遣してきた使者と接触させた。この時、武田氏に内通していた岡崎(家康方)の人物が誰かは定かでないが、これは氏真の了解と協力を得てのことであり、武田・今川同盟による家康打倒は、かなり具体的な形が見え始めていたことが確認できる。
ところが、ここまで信玄の協力を受けながら、氏真は結局三河に出陣することはなかった。彼は、上杉謙信(うえすぎけんしん)の侵攻を受けていた北条氏康(ほうじょううじやす)・氏政(うじまさ)父子支援のために、関東に自ら出陣したのである。このことは、今川領国における氏真の権威を低下させたとみられる。
家康は、この事態を見逃さなかった。臨時課税の不満燻(くすぶ)る遠江(とおとうみ)の国衆に調略を仕掛け、永禄6年12月、引馬(ひくま)城主飯尾連龍(いのおつらたつ)を蜂起させることに成功したのである。この飯尾の叛乱は、まもなく遠江国衆が続々と今川から離叛する動きを誘発した。遠州忩劇(えんしゅうそうげき)と呼ばれる混乱を、氏真はなかなか鎮圧することが出来なかった。信玄は、この事態をみて、氏真に愛想を尽かし、秘かに叛乱軍と連絡を取るとともに、氏真が敗北するようならば、駿河に侵攻する意向を示した。氏真救援を名目に、駿河を簒奪(さんだつ)しようと考えたようだ。
監修・文/平山優