呪われた明智光秀の親族を救え!戦国時代の神主のお仕事事情とは
戦国時代の裏側をのぞく ~とある神官の日記『兼見卿記』より~
戦国時代の神主・吉田兼見によって書かれた日記『兼見卿記』。織田信長や明智光秀など名だたる武将たちのプライベートな一面が見られる貴重な史料ですが、そこには当時の神主の仕事内容についても多く記されています。中にはとある“ビッグネーム”からの依頼も…。いったいどんな内容だったのでしょうか?
■戦国時代の神主のお仕事とは?
戦国時代の様々な出来事を記した貴重な日記『兼見卿記』(かねみきょうき)の著者・吉田兼見(よしだかねみ)は、京都吉田神社の神主でありました。よって、同日記には、兼見の神主としてのお仕事についても書かれているのです。それでは、兼見は、どのような仕事をしていたのでしょうか?

戦国時代の神主・吉田兼見のお仕事とは?(イラスト/nene)
例えば、元亀元年(1570)6月5日の項目には、次のようなことが記されています。近江国(現在の滋賀県)甲賀郡に一組の夫婦がおりました。夫は27歳、妻は25歳。その夫婦には、息子が2人いたようなのですが、残念ながら、既に亡くなってしまったとのこと。が、その悲しみを乗り越えて、この月、新たな命が誕生するので、兼見の神社で「祈念」して欲しいというのです。つまり、安産祈願をして欲しいということです。
兼見はこの依頼を「許容」します。その後、兼見が先ずやったことは、この夫婦の「相性」を見ることでした。結果、夫婦の相性は「水火相剋」(すいかそうこく/水と火という相反する気がぶつかり合う)という良くないもの。そこで、兼見は「相生」(そうじょう/五行の運行に従って互いに他を生じる)の「鎮符」(護符、お守り)やお札などを与えたのでした。兼見が贈ったお守りの甲斐あって、無事に子供は産まれたのでしょうか。気になるところです。
翌年(1571)には、これまた甲賀郡の人から依頼が入ってきました。望月下野守という者が、僧侶を使者に遣わして言うには「ある女が狐に憑かれて、気が狂ってしまいました。よって、稲荷大明神を勧請(かんじょう/神仏の分霊を他の場所に移し、祀ること)して欲しい」。兼見はこれを認めます。
■明智光秀の親族が呪われた!?
これまで見てきたのは、名もなき人々の兼見への依頼でしたが、ビッグネームからある依頼が舞い込むことも。それは元亀3年(1572)といいますから、徳川家康(とくがわいえやす)と武田信玄(たけだしんげん)との三方ヶ原(みかたがはら)の戦いが起こった年です。その年の12月11日。明智光秀(あけちみつひで)から兼見に書状が届きます。そこには、美濃国(現在の岐阜県)にいる光秀の親類についてのことが書かれていました。
光秀の親類は「山王の敷地」に新たに城を築いたは良いのですが、それ以来「不快」(体調不良)になってしまったとのこと。よって「祈念」して欲しいというのが、光秀の兼見への頼みでした。もちろん、兼見はそれを聞き入れます。「鎮札」などを調えて送ることを光秀に書状で約束したのです。光秀は兼見に感謝したことでしょう。
『兼見卿記』には、不調や異変に対し、風水や狐や霊がかかわっていると考えて、兼見のもとに祈念を頼みに来た人々がいたことが分かります。また明智光秀という武将とも、そうした祈念を媒介にした繋がりを持っていたということも興味深いところです。