信玄の死はストレスに起因していた?
史記から読む徳川家康⑲
5月21日(日)放送の『どうする家康』第19回「お手付きしてどうする!」では、大きな犠牲をともなった敗北から立ち直れずにいる徳川家康(とくがわいえやす/松本潤)の様子が描かれた。一方、信玄の後を継いだ武田勝頼(たけだかつより/眞栄田郷敦)は、再び徳川領を攻める姿勢を鮮明にしていた。
信玄に奪われた所領の奪還に動き出す

愛知県新城市の野田城本丸跡に建つ城址の石碑。野田城は武田信玄が最後に落とした城として知られるが、この地には信玄が病没ではなく、この城で銃撃されて負った深手が死因だったとする異説が伝わる。市内にある設楽原(したらがはら)歴史資料館には信玄を撃ったとされる「信玄砲」が展示されている。
1573(元亀4)年4月12日、武田信玄(たけだしんげん/阿部寛)は信州駒場で死去した。3年の間、自身の死を秘密にするよう信玄は遺言したが、その噂はあっという間に各地を駆け巡った。
信玄の死の知らせを受けた徳川家康は、奪われた所領を取り返すべく、家臣たちに各地の内情の調査に走らせる。信玄の死を喜ぶ家臣を諌(いさ)めた家康だったが、その胸中には戦神・信玄の恐ろしさがまだ生々しく残っていた。
それからまもなく、織田信長(おだのぶなが/岡田准一)は敵対する勢力の駆逐を開始。室町幕府十五代将軍・足利義昭(あしかがよしあき/古田新太)を容赦なく京から追放し、義弟の浅井長政(あざいながまさ)も自害に追い詰めた。
そんななか、侍女のお万(松井玲奈)が家康の子を宿す。正室の面目を潰された瀬名(せな/有村架純)は激怒するが、お万の高い見識の前に怒る気が失せた。お万は浜松城を去ったが、瀬名の胸にお万の言葉が残った。
一方、信玄亡き後、武田家を継いだ武田勝頼は、徳川の領地である三河への侵攻を宣言。家康の嫡男・信康(のぶやす/細田佳央太)と瀬名を籠絡(ろうらく)するよう、歩き巫女(みこ)の千代(古川琴音)に命じたのだった。
織田・徳川の反転攻勢が始まる
織田信長の事績をまとめた『信長公記』によれば、足利義昭は、武田信玄による遠江(とおとうみ)侵攻のみならず、北近江の浅井長政や越前の朝倉義景(あさくらよしかげ)らとも交戦中だった信長が「八方塞がりだ」と配下から聞かされたため、信長に敵対する姿勢を鮮明にしたという。『信長公記』では、これを「公方様御謀叛」と記している。
信長は実子を人質に出すなどを条件に義昭と和議を試みたが、拒否された(『兼見卿記』「細川家文書」)。
1573(元亀4)年2月に、信長は義昭方の近江国今堅田城(いまかたたじょう/滋賀県大津市)などへの攻撃を開始。同月24日には柴田勝家(しばたかついえ)、明智光秀(あけちみつひで)、丹羽長秀(にわながひで)らを派遣して、近江国石山城(滋賀県大津市)を攻めている(『信長公記』)。
同年3月29日に信長が上洛すると、細川藤孝(ほそかわふじたか)、荒木村重(あらきむらしげ)が信長への忠節を示すため、近江国逢坂(おうさか/滋賀県大津市)にて出迎えた(『信長公記』)。
同年4月3日、信長は義昭に和平を迫るべく、上京に火を放った(『信長公記』『兼見卿記』)。これを受け、義昭は朝廷に仲介を依頼(『兼見卿記』)。同月6日に和議が成立。翌日に信長は京から引き上げた(『信長公記』)。
同月12日、三河を撤退し、所領の甲斐に向かっていた信玄が死去(『天正玄公仏事法語』『武家事紀』)。病状が重く、甲斐にたどり着く前に病没した。
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