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「三方ヶ原の戦い」は偶発的に起こった合戦だった?

史記から読む徳川家康⑰


5月7日(日)放送の『どうする家康』第17回「三方ヶ原(みかたがはら)合戦」では、浜松城に押し寄せる武田信玄(たけだしんげん/阿部寛)の軍勢を迎え撃つ徳川家康(とくがわいえやす/松本潤)らの様子が描かれた。「桶狭間(おけはざま)をなす」と意気込む家康だったが、信玄の思わぬ行動に混乱を余儀なくされた。


 

武田信玄の策略に翻弄される家康

静岡県磐田市に建つ一言坂の戦い跡地の石碑。三方ヶ原の戦いの前哨戦とされるこの戦いの殿軍を務めた本多忠勝は、味方を一騎も欠かすことがなかったといわれている。

 

 決戦が迫る徳川家康の居城・浜松城には、武田信玄の率いる軍勢の動きが刻々と報告されていた。

 

 武田軍は三日に一つの勢いで城を落とし、甲斐(かい)出撃から約20日の間に、難攻不落といわれた高天神(たかてんじん)城も落城させた。ひと月後には浜松城さえ包囲されようとするなか、頼みの綱である織田信長(おだのぶなが/岡田准一)は浅井・朝倉連合軍と交戦中であり、加勢がほとんど期待できない状況だった。

 

 家康は密かに信長を呼び出し、今後の方策について話し合う。籠城でひと月持ちこたえることができれば、浅井・朝倉勢との戦いに決着をつけた織田の本軍が駆けつける。同時に、岡崎城を守る家康の嫡男・松平信康(まつだいらのぶやす/細田佳央太)も兵3000で出撃して武田軍の退路を断つ。その後、家康率いる徳川軍が武田軍を総攻撃する。こうした作戦が確認された。

 

 果たして、浜松城で籠城する家康らは武田軍と対峙。ところが、武田軍は浜松城を素通りして西上する動きを見せた。このまま武田軍の進軍を許せば、信長と確認した作戦の遂行どころか、家康にとって先祖代々の領地である岡崎が危機に瀕することになる。

 

 家康は地の利を生かして、城から撃って出ることを決断。背後から武田軍に攻撃を加え、わずかな勝機を引き寄せることにした。

 

 しかし、出撃した家康らを待っていたのは、迎撃態勢をすっかり整えていた武田軍の姿であった。

 

敗戦続きの末に迎えた三方ヶ原の戦い

 

 三方ヶ原の戦いでの両軍の戦力差は、武田軍約3万、徳川軍11000(『三河物語』)とされるが、正確なところは分かっていない。

 

 徳川の軍勢11000には織田信長からの援兵3000が含まれている(「朝倉義景宛武田信玄書状」)が、当時の織田軍の状況からみて数が少なすぎるとの指摘もある。

 

 武田軍は1572(元亀3)年1010日に遠江(とおとうみ/現在の静岡県西部)に侵攻し、犬居城(いぬいじょう/静岡県浜松市)に入城した(『武徳大成記』)。

 

 遠江攻略にあたり、信玄は徳川方から武田方に寝返らせていた天野藤秀(あまのふじひで)に案内させて、各地に侵攻(『甲陽軍鑑』『松平記』)。さらに信玄は、新たな領地を与えることを約束した上で味方につけた三輪元致に二俣城(ふたまたじょう/静岡県浜松市)の攻略を依頼(「武田信玄判物」)。しかし、思うような成果は得られなかった。

 

 一方、高天神城(静岡県掛川市)や飯田城(静岡県森町)など、次々に徳川方の城を攻め落とされた徳川家康も、武田軍を食い止めるべく、三ヶ野(静岡県磐田市)に軍勢を派遣。しかし、敗色濃厚となり、見付(みつけ)の町に火を放って退却した(『浜松御在城記』)。見付の町衆が徳川軍に加勢して、徳川兵を助けるべく火を放ったとする説もある(「成瀬家文書」)。

 

 ところが、浜松城へと退く途上で武田軍に追いつかれ、一言坂(静岡県磐田市)で激戦が繰り広げられた(『寛永諸家系図伝』)。日付は明らかでないが、武田軍が遠江に侵攻した同年10月中のことだったと見られている。

 

 この時に殿軍を務めたのが本多忠勝(ほんだただかつ)で、民家の火災を煙幕(えんまく)代わりに利用して、自軍の退却を成功させたという。忠勝の采配に、敵方の武田兵も「家康に過たる物」と感嘆した(『甲陽軍鑑』)。

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小野 雅彦おの まさひこ

秋田県出身。戦国時代や幕末など、日本史にまつわる記事を中心に雑誌やムックなどで執筆。近著に『「最弱」徳川家臣団の天下取り』(エムディエヌコーポレーション/矢部健太郎監修/2023)、執筆協力『歴史人物名鑑 徳川家康と最強の家臣団』(東京ニュース通信社/2022)などがある。

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