家康は「姉川の戦い」直後に信玄と断交していた
史記から読む徳川家康⑯
4月30日(日)放送の『どうする家康』第16回「信玄を怒らせるな」では、徳川家康(松本潤)が武田信玄(阿部寛)との対決を余儀なくされる。武田相手の合戦は「十に九つは負ける」と絶望視されるなか、両家の緊張が高まる。
戦国最強・武田信玄との対決が迫る

静岡県浜松市の三方原古戦場。1572(元亀3)年8月には、三方原で家康が鷹狩を行なった記録が残っている。これは信玄との合戦に備えた予行演習と考えられている。
井伊虎松(いいとらまつ/板垣李光人)を名乗る人物に襲われた徳川家康は、切り取った領地である遠江の民に快く思われていない現実を思い知らされる。その背景には、遠江の民や地侍に金を配り、味方につけようとする武田信玄の計略も含まれていた。
そんななか、武田家と盟約を結ぶ際に人質として甲斐に差し出した家康の義弟・松平源三郎勝俊(長尾謙杜)が、ひどい仕打ちを受けているとの情報が入る。
密かに服部半蔵正成(山田孝之)を派遣して源三郎を救い出した家康だったが、信玄よりの言伝を源三郎から耳打ちされ、その内容に驚愕した。信玄は「弱き主君は害悪なり。滅ぶが民のためなり。生き延びたければ、我が家臣となれ。手を差し伸べるは、一度だけぞ」と、家康に最後通牒を突きつけたのだった。
未曾有の危機に徳川家家臣が結束を固めるなか、信玄は出陣。天下に安寧をもたらすため、戦乱を広げるだけの織田信長(岡田准一)を敵と宣言した上で、まずはその同盟者である家康を討つべく、全軍を出発させたのだった。
信長の立場に影響を及ぼした家康の単独外交
1570(元亀元)年6月28日、織田・徳川連合軍は、姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍を撃破した(「津田文書」)。
織田信長は同年7月7日には岐阜に下向(『言継卿記』)。同月14日に、信長は武田信玄から次のような内容の書状を受け取っている。
「越後と甲斐が戦になれば合力してくださるとのこと、頼もしく存じます」(織田信長宛武田信玄書状)
上杉謙信と合戦になった場合、信玄方に味方する、とした信長の書状に対する返信とされる。信長と信玄の関係が、この時は良好だったことが分かる。
一方、信長の同盟者である徳川家康は、同年8月22日に謙信に対して和親を申し入れている。謙信と家康は、前年の1569(永禄12)年頃から交渉を開始していたようだ(「上杉家文書」)。
同年10月8日には、家康は謙信に起請文を送り、同盟関係を築いた。この時に家康は、信玄と断つことを明らかにした上で、謙信と信長の盟約締結に努力することを誓っている。それどころか、信長と信玄との間をも断交させると、踏み込んだ発言もしている(「上杉家文書」)。これらは家康の単独外交だったと考えられている。
こうした動きを受けて、信玄は信長に意見を求めているが、信長は徳川氏との同盟を維持すると返答している(「田嶋家文書」)。
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