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信長や義昭を困惑させた信玄の「撤退」

史記から読む徳川家康⑱


5月14日(日)放送の『どうする家康』第18回「真・三方ヶ原合戦」では、「戦死」の情報が飛び交う徳川家康(とくがわいえやす/松本潤)の敗走の様子が描かれた。多くの家臣が次々と命を落とすなか、家康の脳裏には、ずっと忘れていた過去がよぎるのだった。


 

家康を助けるため家臣が次々に命を落とす

愛知県岡崎市の岡崎公園に建つ徳川家康のしかみ像の石像。三方ヶ原の敗戦で多くの家臣を失った家康が、自戒の念をこめて絵師に描かせたものを参考にした石像だが、近年の研究により、この逸話は後世の創作であることが判明している。

 地の利を生かして背後から攻撃するつもりで出撃した徳川軍だったが、迎撃態勢を整えていた武田軍によってまたたく間に総崩れとなった。援軍として参戦していた織田勢も、早々に戦場を退いた。

 

 徳川家康の居城である浜松城には、続々と傷ついた兵らが逃げ込んでくる。しかし、肝心の家康の姿がない。

 

 その頃、追手の目をかいくぐった家康は、戦場からほど近い集落に身を潜めていた。そこへ、浜松城の留守居役を務めていた夏目広次(甲本雅裕)がわずかな兵とともに救援に駆けつける。

 

 夥しい数の敵兵に囲まれていることから、広次は家康に具足を脱がせ、家康の身代わりとなる策に打って出るという。

 

 制止する家康に対し、広次は「殿が死ななければ、徳川は滅びませぬ」と言い残してその場を去った。広次は、これまで家康に何度も救われた恩義を返すのだという。家康は、忘れていた広次との過去の出来事を思い出していた。

 

 広次はじめ、多くの家臣の命を賭した行動により浜松城に生還した家康は、「決して無駄にはせぬ」と涙ながらに決意を新たにしたのだった。

 

 ところが、武田信玄(たけだしんげん/阿部寛)は、浜松城や織田信長(おだのぶなが/岡田准一)のいる京を目指すのではなく、甲斐(かい)に退却しているとの情報が入った。信玄との決戦を覚悟していた信長や、信玄の上洛を期待していた足利義昭(あしかがよしあき/古田新太)は、予想外の信玄の行動に呆気にとられたのだった。

 

やられっぱなしではなかった家康の「三方ヶ原の戦い」

 

 三方ヶ原(みかたがはら)の戦いは、1572(元亀3)年1222日午後4時頃に開戦したとされる。武田信玄は物見からの報告を入念に精査し、家臣たちと軍議を重ねるという慎重な姿勢を保っていたため、開戦が遅くなったらしい(『甲陽軍鑑』)。

 

 信玄は300人ほどの足軽に石つぶてを投げさせて徳川軍を挑発した(『信長公記』)。当初、徳川軍はその様子を静観していたが、やがて合戦におよぶと、武田軍の先手、二の手を切り崩し、信玄の本陣に向かって殺到した。しかし、武田軍の本隊に押し返される格好となり、敗走を余儀なくされたという(『三河物語』)。

 

 開戦から1時間余りの後、織田信長からの援軍として派遣されていた平手汎秀(ひらてひろひで)が討死(『信長公記』)。同じく織田軍の援将であった水野信元(みずののぶもと)は早々に戦場から逃れた。この振る舞いから、信元は武田軍に通じていたとの疑惑も持たれた(『当代記』)。

 

 合戦の勝敗がついたとされるのは午後6時頃のことだったらしい。総崩れとなった徳川軍が壊滅状態のなか、早々に浜松城に帰陣した家臣が「家康戦死」を報告。岡崎城にも山田正勝(やまだまさかつ)という武士が家康の戦死を伝えていたという(『三河物語』)。

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小野 雅彦おの まさひこ

秋田県出身。戦国時代や幕末など、日本史にまつわる記事を中心に雑誌やムックなどで執筆。近著に『「最弱」徳川家臣団の天下取り』(エムディエヌコーポレーション/矢部健太郎監修/2023)、執筆協力『歴史人物名鑑 徳川家康と最強の家臣団』(東京ニュース通信社/2022)などがある。

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