魚雷攻撃はなぜ「艦船による発射」から「雷撃機からの投下」に変化したのか?
「歴史人」こぼれ話・第27回
海に面していた時代のオーストリア=ハンガリー帝国が開発したホワイトヘッド魚雷を皮切りとして、水雷艇による魚雷攻撃法が発達した。しかし、甲板上に無防備に置かれた魚雷は敵機の攻撃を受けやすく、魚雷自体がその場で爆発することも少なくなかった。日清・日露戦争を経て、太平洋戦争の時代には雷撃機に魚雷を搭載して投下するという「飛行魚雷」が主力となっていくが、そこにも困難が伴っていた。
水深が12mの浅瀬では超低空の飛行訓練が必須
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日清戦争の黄海海戦で水雷艇の攻撃を受ける「西京丸」の奮戦 山高五郎画 船の科学館蔵
魚雷とは、いうまでもなく、水中を自走して敵の艦船や潜水艦などを爆破する兵器である。1866年に、オーストリア=ハンガリー帝国が開発したホワイトヘッド魚雷が、その皮切りだといわれている。
同魚雷は全長355.6㎝、重さ383.29㎏という巨大さで、圧縮空気の力によって推進。時速13㎞(11㎞とも)という遅速が気になるものの、当時としては画期的というべき新兵器であった。
これに着目した日本海軍も開発に着手。第二次世界大戦時には、海軍における攻撃の要として、魚雷による攻撃、いわゆる雷撃が重要視されるようになっていった。巡洋艦(じゅんようかん)を中心として、魚雷発射管が数多く装備されたようである。魚雷は水中を駆け抜け、敵艦を爆破した。
ところが、これには大きな難点があった。甲板上に無防備に置かれた魚雷は、敵機の攻撃を受けやすく、魚雷自体がその場で爆発することも少なくなかったのだ。
そこで、これに代わって主力となったのが、雷撃機に魚雷を搭載して、これを敵艦近くで投下するという飛行魚雷である。真珠湾の奇襲攻撃で活躍したのも、これであった。
問題は、高度15〜30mという超低空で飛行しながら、敵艦の間際まで近付く必要があったことだ。水深が12mしかない浅瀬の真珠湾では、通常の100mほどの高度から魚雷を落下させるわけにはいかなかった。
この高さから投下すれば、海底に突き刺さってしまうからである。それを12m以内までに抑えるためには、どうしても、超低空での投下が必要不可欠であった。そこで行われたのが、超低空の飛行訓練。もちろん、極秘である。パイロットたちにしてみれば、なぜ低空飛行ばかり訓練させられるのか、不思議に思ったことだろう。
真珠湾攻撃の要となったパイロットの腕前
ともあれ、それから2ヶ月後の12月8日午前3時27分、ついに雷撃隊による攻撃が開始された。超低空で侵入した攻撃機が、重さ800㎏もの魚雷を投下。見上げれば、すでに目の前に巨大な敵艦が迫っている。そこをすかさず操縦桿(そうじゅうかん)を引いて、目標の敵艦船を飛び越えて立ち去らなければならなかったのだ。ここで役に立ったのが、前述の飛行訓練であった。訓練の甲斐あってか、敵艦にぶつかる攻撃機は一機もなかったとか。訓練の効果と、それに応えたパイロットの腕の見事さに、驚かされてしまうばかりだ。