「戦艦大和」誕生と海軍軍縮条約
「戦艦大和」物語 第1回 ~世界最大戦艦の誕生から終焉まで~
日本海軍が誇った戦艦大和の設計、開発、メカニズムから、その運用、戦史までをコンパクトに解説。第1回は戦艦大和誕生の歴史的背景を紹介する。

ワシントン海軍軍縮会議の際、その保有の可否が問題となった当時最新の長門型戦艦2番艦「陸奥」。不運にも太平洋戦争中の1943年6月8日、広島湾の柱島泊地に停泊中謎の大爆発を起こして爆沈。乗員1474名中、生存者は353名にしかすぎなかった。
第一次世界大戦で、航空機は本格的な「兵器」となった。だが、現在のような世界を巡ることができる「戦略兵器」と位置付けられるほどの発展は、戦後に至っても遂げていなかった。
一方、海を越えて文字通り海外を攻められる軍艦、特に最大最強の艦種である戦艦は、「砲艦外交」の言葉でも示されるように、「政戦略兵器」として認められた存在であった。
このような事情から、簡単に言ってしまえば、第一次大戦の戦勝国は海軍力の増強に力を入れることになった。しかし同大戦でかかった莫大な戦費は、戦勝国といえども戦後まで財政を圧迫しており、全世界を巻き込んだ国家総力戦が終結した以上、しばらくは軍事費を削減してもよいのではないか、というのが戦勝各国の本音であった。
それに加えて、アジア方面に利権を有するアメリカとイギリスは、アジア人国家の日本の台頭を警戒しており、なんとかその力の拡大を抑えたかった。
そこで1922年にアメリカ、イギリス、日本、フランス、イタリアの間でワシントン海軍軍縮条約が締結され、海軍の建艦競争を抑制すべく軍艦の隻数と、新規の製造に際してはその性能に制限を加えることが決まった。特に主力艦と称される戦艦は、アメリカとイギリスの保有隻数をそれぞれ5として日本は3とされたため、不利となっている。
だが日本は当時未完成だった長門型(ながとがた)戦艦2番艦「陸奥(むつ)」の保有を主張し、これを通すことができたため、続く1930年のロンドン海軍軍縮条約を含めて1936年1月15日に脱退するまで、この長門型戦艦2隻が日本海軍の最新最強の戦艦であった。
なお、列強海軍が海軍力増強を抑制していた条約期間中は「ネイヴァル・ホリデー(海軍休日)」などとも称されていた。
条約脱退後、アメリカとイギリスに対する戦艦の保有隻数の不利を是正するため、日本海軍は優秀な戦艦の設計を本格化させる。実はその研究は条約期間中にすでに開始されており、それをいっそう具体化させていく方向へと押し進めたのである。
検討の結果、新造の戦艦は当時の日本海軍における最新最強の戦艦だった長門型をはるかに凌駕する火力と防御力を備えることを当然として、それをいかに具体化させるかが検討・研究のテーマとなっていた。
かくして、大和型戦艦への胎動が加速してゆくことになる。