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優秀ながら生産数が少なすぎて戦局に貢献できず:一式装甲兵車(ホキ)

日本戦車列伝 第12回 ~国産戦車の開発と運用の足跡を辿る~


欧米の陸軍に比べて機械化で遅れをとった日本陸軍。だが、戦車とともに行動し、完全武装の歩兵を戦場に運ぶ兵員輸送用の装甲車があった。その名は一式装甲兵車(ホキ)。


一式装甲兵車。乗員が身体を乗り出しているのが操縦席で、向かって右側の前面にグリルが見えるところにエンジンが積まれている。走行性能も不整地踏破性能も良好で、使い勝手のよい装軌式装甲兵車に仕上がっていたが、いかんせん生産数が少なすぎたゆえに、実戦において貢献することができなかった。

 当時、日本は中国大陸への進出を図っていた。そのため、島国の陸軍であるにもかかわらず、日本陸軍は同大陸で中国やソ連と交戦する可能性を第一に考えていた。

 

 特に、前近代的な中国軍ではなく、同大陸のステップ地帯における機動戦に有利な、機械化されたソ連軍と戦ったノモンハン事件は、日本陸軍の機械化の方針に戦訓と技術的教訓をもたらすことになった。

 

 このような流れの中で、日本陸軍は野外機動における装輪式車両の限界を認識することになる。そこで、従来の装輪式に代えて、輸送車や兵站(へいたん)車として半装軌(はんそうき)式車両や装軌式車両を用いるべく、その開発に着手した。もっとも、陸軍自身かなり前から同様の基礎研究を行ってはいた。

 

 当時の日本陸軍では、敵の防御陣地に突破口を穿(うが)ち、それを歩兵が押し広げるというオーソドックスな戦術を考えていたが、戦車に後続する歩兵の移動速度が遅いことが難点だった。問題を解決すべく歩兵を装輪式車両で後続させることも行ったが、装輪式車両の不整地踏破能力は、装軌式車両にまるで及ばなかった。

 

 解決策は装軌式の輸送車を造ることだ。そこで陸軍は、1941年に日本軍初の量産型装軌式装甲兵員輸送車となった、一式装甲兵車を制式化した。

 

 簡単に言えば、戦車の車台のうえに装甲板で造られたトラックのような形状の車体を載せたものが一式装甲兵車で、固有の乗員3名の他に完全武装の歩兵12名を乗せることができた。装甲は、弾片防御程度で近距離から小銃の徹甲弾で撃たれれば撃ち抜かれるほど脆弱だったが、全くの非装甲である装輪車両よりははるかに改善されているといえた。

 

 走行性能も良好で機械的信頼性も高い優秀な装軌式装甲兵車ではあったが、実情として日本陸軍は本車よりもその生産を優先すべき兵器類が多かったため、結局、量産が始まったのは1944年になってからだった。そのため、生産総数は200両程度とされるが実際のところは不明である。

 

 ごく少数の一式装甲兵車はフィリピンや満州に送られて実戦を経験。高い評価を受けたが、戦争末期には海上輸送が困難だったこともあり、本土決戦に向けて国内の戦車部隊などに配備され温存された。

 

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白石 光しらいし ひかる

1969年、東京都生まれ。戦車、航空機、艦船などの兵器をはじめ、戦術、作戦に関する造詣も深い。主な著書に『図解マスター・戦車』(学研パブリック)、『真珠湾奇襲1941.12.8』(大日本絵画)など。

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