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M4中戦車と互角の戦闘も可能ながら実戦投入できず:三式中戦車(チヌ)

日本戦車列伝 第9回 ~国産戦車の開発と運用の足跡を辿る~


日本本土決戦での、対戦車戦闘を想定して配備された三式中戦車(チヌ)。その開発の経緯、性能、戦歴など全貌を明らかにする。


カモフラージュ塗装が施された三式中戦車。ドイツのケーニクスティーガー風のデザインの砲塔に搭載された三式七糎半戦車砲II型は、ご覧のように砲身の下の駐退復座機が車外に大きくはみ出していた。本車は実戦を経験していないのであくまで予測だが、戦場では、この駐退復座機への被弾で砲が使用不能となる事態も起こりそうだ。

 日本陸軍が、遅ればせながら対戦車戦闘を重視して生み出したのが一式中戦車だったが、その生産が始まった1944年の時点で、搭載された47mm砲は威力不足となってしまっていた。

 

 そのため、より強力な戦車の開発は日本陸軍にとっての急務だったが、すでに戦局は悪化の一途を辿り、太平洋戦域の島嶼部やビルマ方面といった、日本本土から海上輸送をしなければ戦車の配備が不可能な戦場に向けて、新型の戦車を送り込むことはきわめて難しくなっていた。

 

 しかし、特にアメリカ軍が主力とするM4シャーマン中戦車と互角程度に戦える戦車は、以降の戦況を考えるうえで絶対に必要だった。そこで考えられたのが、一式中戦車の車体に大口径砲が搭載できる新設計の大型砲塔を結合して、暫定的な「新型戦車」を開発することだった。これならば、戦車全体を開発するよりもはるかに短い時間で実用化に漕ぎ着けることができる。

 

 一式中戦車の47mm砲に代えて白羽の矢が立てられたのは、口径75mmの九〇式野砲だった。同砲は、前線から「M四戦車に九○式野砲は極めて有利なり」と報告されており、同砲に小改修を施した三式七糎半(さんしきななせんちはん)戦車砲II型が搭載された。だが至急の開発が求められていたため改修にかけられる時間が短く、その結果、砲身の下に設けられた駐退(ちゅうたい)復座機が砲塔から大きくはみ出すデザインとせざるを得なかった。

 

 このように、一式中戦車の車体に急造の砲塔と75mm戦車砲を乗せて誕生したのが三式中戦車で、19449月に試作車が完成すると、翌月から量産が開始された。

 

 試作車による運用試験の結果、日本側のM4に対する評価が過大だったこともあり、本車とM4の対戦は46分程度の勝負と考えられた。しかし実際には、乗員の腕にもよるがほぼ互角の勝負ができたのではいかという説もある。

 

 三式中戦車は、終戦までに166両(異説あり)が生産されたといわれる。だがすでに外地への配備は困難で、日本本土決戦用に国内の戦車部隊への配備が進められた。

 

 かような次第で、結局、本車は実戦に参加することなく終戦を迎えたが、長砲身76mm戦車砲搭載のM4には苦戦した可能性はあるものの、少なくとも75mm戦車砲搭載のM4とは十分に戦える戦車だっただけに、実戦参加の機会が得られなかったのは無念といえよう。

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白石 光しらいし ひかる

1969年、東京都生まれ。戦車、航空機、艦船などの兵器をはじめ、戦術、作戦に関する造詣も深い。主な著書に『図解マスター・戦車』(学研パブリック)、『真珠湾奇襲1941.12.8』(大日本絵画)など。

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