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世界の流行に準じた国産多砲塔重戦車:九五式重戦車(ロ号)

日本戦車列伝 第6回 ~国産戦車の開発と運用の足跡を辿る~


「軽量・小型」という日本軍戦車の特徴を覆す、複数の砲を装備する戦車がかつて存在した。その名は九五式重戦車(ロ号)。異形の戦車が誕生した背景とは?


 

迷彩塗装が施された九五式重戦車。同車は実戦に投入されることはなく、のちに生産総数4両のうちの2両が、それぞれ改造されて別の自走砲の試作車へと転用されている。

 

 第一次世界大戦直後、「戦車発祥の国」であるイギリス陸軍は、複数の砲塔を備えた大型の戦車を開発した。それがA1E1 インディペンデント重戦車である。当時の同陸軍は、戦車の主任務のひとつであった敵の堅陣を突破するのに際して、同車のような大型戦車を主力とし、それに何両もの小型戦車が付き従うという、ちょうど海軍における戦艦と駆逐艦のような関係での、戦車の運用を考えていたのだ。ちなみに、この発想における小型戦車が、九四式軽装甲車の開発に際して重要な参考となったカーデン・ロイド豆戦車である。

 

 そこで日本陸軍は、八九式中戦車の成功に基づき、この多砲塔戦車の開発に着手。1931年に試製九一式重戦車が完成した。同車は、八九式中戦車の原型となった試製一号戦車から発展したものだった。車体中央部に57mm砲を備えた主砲塔1基、車体前部と後部に、それぞれ機関銃1挺が組み込まれた銃塔を1基ずつ計2基備えた多砲塔戦車で、運用試験の結果、ある程度満足できる性能を発揮した。

 

 だが、車体重量が計画値よりもやや増加した結果、最高速度が約20km/hと遅かったため、いっそうの改良が進められることになった。そしてこの頃になると、日本陸軍もかつてのイギリス陸軍のような「陸上の主力艦(戦艦)」として多砲塔戦車を開発しているのではなく、一般的な重戦車がたまたま多砲塔だという発想に転換して、同車の改良に着手している。

 

 改良は、武装と装甲、すなわち戦車が備えた「攻・防・走」のうちの前二者に重点が置かれた。その結果、主砲塔に新開発の70mm1門と機関銃1挺、車体前部の小砲塔に37mm1門、車体後部の銃塔に機関銃1挺を備えている。

 

 改良車は1934年に試作車が完成し、さまざまな試験に供されたうえで、1935年に九五式重戦車として制式化された。しかしこの時期になると、すでに「戦艦プラス駆逐艦」という戦車の運用思想は完全に主流ではなくなっていた。代わりに、たとえば九七式中戦車のような中戦車多数を装備したほうが得策と考えられるようになっていた。

 

 また、九五式重戦車の約22km/hという速度の遅さも問題だった。確かに試製九一式重戦車よりも約2km/h速くなっているとはいえ、当時の日本陸軍の主戦場だった中国大陸の平野では、トラックなどの装輪式車両の進撃速度に追随できず、肝心の戦車が後方に取り残されてしまいかねないと判断されたのだ。

 

 これらの事情から、結局、九五式重戦車はわずか4両が生産されたにすぎず、実戦に投入されることはついぞなかった。

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白石 光しらいし ひかる

1969年、東京都生まれ。戦車、航空機、艦船などの兵器をはじめ、戦術、作戦に関する造詣も深い。主な著書に『図解マスター・戦車』(学研パブリック)、『真珠湾奇襲1941.12.8』(大日本絵画)など。

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