国産初の量産型戦車として誕生した世界水準車:八九式中戦車(イ号)
日本戦車列伝 第1回 ~国産戦車の開発と運用の足跡を辿る~
第一次世界大戦で新兵器として登場した「戦車」。その開発に遅れをとった日本陸軍は、欧州諸国の技術を参考にみずからも戦車開発を開始。「鉄獅子」と称された八九式中戦車の開発秘話、戦史に迫る。

太平洋戦争緒戦のフィリピン攻略戦において作戦行動中の八九式中戦車。1929年に仮制式化された本車は、さすがにこの時期ともなると旧式化が否めなかったが、「勝ちいくさ」の流れに乗って相応の活躍を示している。
第一次世界大戦に後から参戦した日本は、結局、本格的な地上戦を経験しないまま戦勝国の一員となった。同大戦では、地上の新兵器として戦車が登場しており、日本陸軍もヨーロッパの戦場における戦車の戦例や戦訓を収集し、その開発と装備を指向した。
当時、陸軍が求めた戦車像をごく簡単にまとめると、以下のごとくになる。
1:歩兵部隊の前進を先導して敵陣を突破できる能力。
2:敵陣を破壊し、守備に就いている敵歩兵を駆逐できる威力の砲と機関銃を装備。
3:泥濘化(ぬかるみか)して足場の悪い戦場を問題なく走破し、敵塹壕(ざんごう)陣地を乗り越えられる走行性能。
4:当時の歩兵が備える兵器に対する耐弾性。
実は第一次大戦末期に、ヨーロッパではすでに戦車 対 戦車の戦いが行われていたが、戦例としては稀だったこともあり、当時の日本陸軍は、戦車を主に歩兵の支援兵器として開発しようとしていたことが、この戦車像から読み取ることができる。
かくして日本陸軍は、1927年に国産初の戦車となる試製一号戦車を開発。初めての国産にもかかわらず、当時としては優秀な性能を示した。そこで、同車に続く国産の量産型戦車の開発が行われることになった。この戦車に求められた能力は、当然ながら既述の項目である。
開発のスタートは1928年3月で、翌29年4月に陸軍造兵廠(ぞうへいしょう)大阪工廠で試作車が完成した。ただし本車は試作こそ造兵廠が受け持ったが、以降の改良と量産は、民間企業の三菱航空機で行われることになる。
1929年10月、本車は八九式軽戦車として仮制式となった。しかし、後の日本陸軍における重量別の戦車の区分の変更など諸般の事情から、1935年に制式名称が改められて八九式中戦車とされた。
本車に搭載された九〇式57mm戦車砲は、当時の車載砲としては大口径で榴弾(りゅうだん)威力も大。また、装甲貫徹力も同時代の列強の戦車に対して十分に通用するものだった。日本陸軍は当時、確かに戦車に対して歩兵の支援を第一義として求めていたが、同砲のおかげで、登場当初の八九式中戦車は榴弾威力に優れ、おまけに対戦車戦闘も相応にこなせるという、優れた中戦車に仕上がっていた。
1932年の第一次上海事変で初めて実戦を経験した八九式中戦車は、高い信頼性と優れた性能を発揮し大活躍した。そのため「鉄獅子」と称され、国内メディアでもてはやされた。
だが1939年のノモンハン事件では、今度は苦戦を強いられることになる。とはいえ、1930年代は、世界的にさまざまなテクノロジーが飛躍的に進歩していた時代であり、約10年前の制式化以降、搭載兵器の強化が行われてこなかった本車が、力不足となるのはやむを得ないことであった。
その後、八九式中戦車は太平洋戦争にも投入され、緒戦のフィリピン攻略戦から、末期の沖縄戦にまで参加している。