機体もエンジンも初の日本人設計で「源田サーカス」を生んだ名機:九〇式艦上戦闘機(A2N)
戦間期日本戦闘機列伝 第1回 ~零戦、隼へと続く戦闘機開発の足跡~
太平洋戦争で華々しい活躍をみせた零戦、隼。この名機誕生の背景には、様々な戦闘機の開発、運用の歴史があった。意外に知られていない戦間期の日本軍戦闘機を全4回で紹介する。

九〇式艦上戦闘機。このようにかなり均整のとれた機体デザインを持ち、それは当然ながら優れた運動性能に反映されている。なお本機は7.7mm機関銃2挺を装備していたが、当時としては標準的な武装であった。
いずれ日本海軍が、グロスター社の設計技師ヘンリー・フィリップ・フォーランドの手になるグロスター・ガムベット戦闘機の中島飛行機におけるライセンス生産型、三式艦上戦闘機(A1N)の後継機を求めるであろうことは必然であった。
そこで中島飛行機では、その受注を目指して新型艦上戦闘機の開発に着手した。しかし、こうして完成した機体は性能的に三式艦上戦闘機と大差なく、採用には至らなかった。
続いて中島飛行機は、起死回生とばかりに新たに設計した機体を、1932年1月に海軍へと引き渡した。この機体は性能面で三式艦上戦闘機を凌駕していたため、海軍は九〇式艦上戦闘機(A2N)として制式化した。同機は、機体も搭載されている寿型エンジンも全てが日本人の設計という、初めての艦上戦闘機だった。
機体重量とエンジン出力がよくマッチし、きわめて優れた運動性能を発揮した九〇式艦上戦闘機は、その後に続く海軍艦上戦闘機の模範と認められただけでなく、海軍航空隊における艦上戦闘機の戦技研究にも重宝された優秀な機体であった。
かような流れの中で、高名な海軍パイロットの源田実(げんだみのる)氏が、戦技開発を兼ねた曲技飛行に用いるほど運動性に優れており、この曲技飛行が「源田サーカス」という言葉を生み出すきっかけとなったといわれる。
事実、実戦でも強く、日中戦争では、日本海軍航空隊のパイロットの練度の高さも手伝って、中国側のアメリカ製戦闘機などを相手に勝利を重ねている。
しかし1930年代中頃は、世界の航空テクノロジーが急速に発達した時期で、さすがの九〇式艦上戦闘機も、そういつまでも一流という訳にはいかなかった。こういった背景もあり、生産機数は百数十機にとどまっている。