開戦時の大敗後、エンジン換装で性能が向上し零戦のライバルに:カーチスP-40
零戦と戦ったライバルたち 第1回 ~「驚異の戦闘機」零戦との死闘~
太平洋戦争時に零戦の好敵手となった連合軍の戦闘機を紹介。今回は戦争初期にアメリカ陸軍航空隊の主力戦闘機であったカーチスP-40を解説する。「やられ役」のイメージが強い同機が備えた真の実力とは?

P-40シリーズでも後期生産型となるP-40K。機首のエンジン直下にある大きなエアインテークを口に見立てたこのようなデコレーション塗装は「シャーク・ティース」、「タイガー・ティース」などという通称で呼ばれる。
1930年代に入ると、列強は戦闘機用として液冷エンジンを求めるようになった。それまでの空冷星型エンジンは、前面投影面積が大きく、それにともなって空気抵抗も大きくなるせいで、最大速度に悪影響があったからだ。そこでアメリカは、アリソンV1710液冷エンジンを開発し、P-38とP-39に採用した。
しかしその頃、世界に戦雲が垂れ込めだした。かような情勢に鑑みて、アメリカ陸軍航空隊はカーチス社の提案を受け、空冷星型エンジンを積んだカーチスP-36ホーク戦闘機のエンジンを、アリソンV1710に換装した性能向上型のP-40の生産を認めた。
こうして誕生したP-40は、当時としても一流半程度の性能にしか過ぎなかった。しかし信頼性に優れて堅牢な上、整備も容易で操縦性も良好。加えて、兵装搭載能力が大きいという、ある意味で使い勝手のよい戦闘機に仕上がっていた。
太平洋戦争勃発時、P-40はアメリカ陸軍航空軍の主力戦闘機だったが、それ以前の日中戦争で、すでに日本の零戦と戦っていた。だが、中国で本機に乗っていたアメリカ人義勇パイロットたちが、日本軍が装備する驚異の高性能戦闘機のことを報告してもまるで重視されなかったことも手伝って、開戦以降、本機は零戦の前にバタバタと落されてしまった。
しかしP-40には長所もあった。それは既述したように堅牢なことで、かなりのダメージを受けても、パイロットが生還できる可能性があったのである。
また、零戦が得意とするドッグファイト(格闘戦)に持ち込まれたらP-40にはまるで勝ち目はなかった。そのような戦訓に基づき、前線で戦う本機のパイロットたちは、零戦に対してはヒット・アンド・アウェー(一撃離脱戦)で戦えば返り討ちにされてしまう危険性が少なくなると気が付き、こうした戦い方が広まるにつれて、本機の犠牲も減少した。
このように、零戦には苦戦させられたP-40ながら、頑丈で使いやすい機体だったことから、1938年10月14日の初飛行から1944年12月の生産終了までの期間中に、1万3738機(異説あり)もの多数が生産されている。特に戦争後半になると、イギリスで開発された傑作液冷エンジンのロールスロイス・マーリンをアメリカのパッカード社も生産するようになり、それを搭載したP-40シリーズの後期生産型は、かなり性能が向上した。
それにこの頃になると、新人零戦パイロットの質の低下が著しく、そのため零戦も、かつてのようにP-40に対する絶対的な優位を保てなくなってしまっていた。