エンジン換装で誕生した大戦末期の日本最強戦闘機:五式戦闘機(川崎キ100)
続・太平洋戦争日本陸軍名機列伝 第2回 ~蒼空を駆け抜けた日の丸の陸鷲たち~
大戦末期に活躍した数少ない日本陸軍戦闘機だった五式戦闘機。その実態は、エンジン開発の遅れから生産数が限られた三式戦闘機「飛燕(ひえん)」の機体を利用した急造戦闘機だった。

駐機中の五式戦闘機一型。側面シルエットでは、胴体後部と尾翼部分に「飛燕」の面影を見ることができる。
五式戦闘機は、エンジンの生産が追いつかず、いわゆる「首なし飛行機」となっていた三式戦闘機「飛燕」の機体に、本来、同機に搭載されるのとは異なるエンジンを搭載した「応急生産機」ともいうべき機体である。実は「飛燕」には、ドイツのダイムラーベンツDB601液冷エンジンを、川崎航空機がライセンス生産したハ40が搭載される手筈になっていた。
だが、慣れない液冷エンジンの製造段階での素材や工作精度などの問題と、それまで空冷エンジンの整備と取扱に慣れた整備兵たちにとって液冷エンジンは扱いにくいという負の条件が重なり、ハ40の生産は滞ってしまっていた。
そこで軍需省は1944年10月、ハ40の代わりに高性能で知られた百式司令部偵察機に搭載されている空冷星型のハ112-IIの搭載を示唆。これを受けた「飛燕」の設計主務者である土井武夫は、急ぎエンジンの換装を進めた。
元来、幅の狭い液冷エンジンを搭載するように設計されている「飛燕」の機首に、幅広の空冷星型エンジンを搭載するには、エンジン・カウリングから後ろの胴体部の絞り込み成形が不可欠だが、五式戦闘機では、このあたりの処理が見事に施された。そのおかげで、飛行特性や速度性能に悪影響が生じるようなことはなかった。
それにハ40こそ問題だったものの、「飛燕」の機体としての飛行性能や強度は申し分のないもので、これに信頼性が高く整備員たちも習熟している空冷星型エンジンのハ112-IIを搭載した五式戦闘機は、結果としてきわめて優秀な戦闘機となった。時系列で見ると、1944年12月末に設計変更が終了。1945年2月に初飛行し、同月中から生産が始まっている。ベースが既存機の改修だったため、ごく短期間で戦力化できたのである。
ハ112-IIは出力こそ1500馬力級で、2000馬力級エンジンを搭載したアメリカのグラマンF6Fヘルキャット、ヴォートF4Uコルセア、リパブリックP-47サンダーボルトや、1700馬力のノースアメリカンP-51マスタングにやや劣る。
だが熟練パイロットが操縦すれば、五式戦闘機が備える優れた空力性能をフルに発揮させることができ、これらの強敵をバタバタと撃墜したのだった。
そのため、太平洋戦争末期に約400機弱が生産されたに過ぎない「応急生産機」的存在だったにもかかわらず、現場部隊での評価はきわめて高かったという。
ちなみに五式戦闘機と呼ばれている機体は、キ100という試作名称こそあるものの、五式戦闘機という名称は、実は制式化されたものではなく、通称のようなものとされている。
なお、かような事情も含んで、連合軍は本機にコードネームを付与していない。