生産国イタリアよりもフィンランドの空で大活躍した戦闘機:フィアットG.50フレッチア
フィンランド空軍戦闘機列伝 第3回 ~祖国を守った極北の異色ファイターたち~
ソ連軍に対する祖国防衛戦争が激化した際に、戦闘機不足であったフィンランド空軍は、頑丈でそこそこの性能を備えた戦闘機を世界中から買い漁った。今回紹介するイタリア生まれのフィアットG.50は、北欧空戦史にその名を刻んだ知られざる名機だ。

フィンランド軍で運用されるフィアットG.50フレッチア。ご覧のように中央部のキャノピーがない開放式コックピットとなっている。パイロットの乗り降りを容易にするため、コックピット脇の胴体側面は下方に向けて開くようになっていた。
1936年、イタリア空軍は全金属製で引込脚を備えた単葉戦闘機を求めるR計画を発表した。実は同時期に同空軍は前時代的な複葉戦闘機フィアットCR.42ファルコの試作を進めており、矛盾に富んだ状況が現出していたが、これは第一次大戦を経験した現場のベテラン・パイロットたちが当時のドッグファイト(格闘戦)に固執しており、運動性に優れた機体を求めたからであった。始末に悪いのは、第二次大戦勃発後すぐにファルコがイギリス空軍のハリケーンやスピットファイアに一方的に撃墜されるまで、同空軍はこの選択が間違っていたとは思ってもいなかったことだ。
さて、このR計画を受けて、フィアット社の航空機設計技師ジュゼッペ・ガブリエリは、空冷エンジンを搭載して引込脚を備えた本機を設計する。本機の接頭記号が「G」なのは、設計者であるガブリエリに敬意を表して、苗字の頭文字が冠されているからだ。初飛行は1937年2月26日で、複葉のCR.42のそれより1年以上も早い。
かくしてフレッチア(イタリア語で「矢」の意)と命名された本機は、引込脚式金属製単葉機として完成した。にもかかわらず、コックピットだけが複葉機と同じ開放式なのは、新型機に注文を付けたり意見を言える立場にある当時のイタリア空軍のベテラン・パイロットの多くが複葉機で実戦経験を積んでおり、彼らが開放式コックピットの視界の広さを好んだからだ。実は本機の試作機は密閉式コックピットを備えていたが、運用する部隊側の要求で、改めて開放式コックピットにされたのである。
フレッチアは、第二次大戦参戦時のイタリア空軍機としては近代的な機体だったが、ハリケーンやスピットファイアより性能に劣るため苦戦を強いられた。しかし本機を33機購入したフィンランド空軍は、パイロットが優秀だったことも影響し、ソ連機に対して常に優位に戦った。本機を配備されたフィンランド空軍第26戦隊は、冬戦争で本機1機を失ったがソ連機11機を撃墜し、続く継続戦争では、本機12機を失ったもののソ連機88機を撃墜している。
特に第26戦隊の“オイッパ”ことオイヴァ・エミール・カレルヴォ・トゥオミネンは、フレッチアを駆ってソ連機23機を撃墜した。これは生産国であるイタリア空軍パイロットも含めて本機による最多撃墜記録であり、別機種での撃墜機数も合わせて最終的に44機を撃墜した“オイッパ”は、フィンランド空軍第4位のエースとなっている。