水上戦闘機から発達した零戦をしのぐ傑作戦闘機:紫電改
太平洋戦争日本海軍戦闘機列伝 第6回 ~海原の碧空を飛翔した日の丸のファイターたち~

ずんぐりとした紫電改は、空中では味方からも敵からもグラマンF6Fヘルキャットに誤認されることがしばしばあった。しかし地上姿勢で見る限り、F6Fとはかなり異なるシルエットであることがわかる。この事例からも、空中で航空機を識別する難しさが理解できよう。
先に本連載で紹介した2式水上戦闘機は、実は、とある別の水上戦闘機の開発が遅延したことによる、リリーフ的立場の機体であった。その本来の水上戦闘機とは、川西航空機が開発した強風(きょうふう)である。
大出力エンジンが必要だったため、雷電と同じ火星エンジンを搭載し、自動空戦フラップという空戦時のフラップ調整を自動で行う機構が組み込まれた、きわめて意欲的な設計の機体であった。しかし2式水上戦闘機がすでに実戦配備されて相応の成果をあげており、戦局は水上戦闘機を必要としない状況になりつつあったため、わずか97機の生産に留まった。
そこで川西は1941年12月末、強風を、引込脚を備える局地戦闘機に改修する計画を海軍に提出した。当時、海軍は新型機雷電の不具合の調整と、零戦の後継機問題で悩んでいたため、既存の機種からの改修で実用化が可能と思われたこの計画を承認した。しかし当時の川西は、飛行艇や水上機のメーカーとしての評価こそ高かったが、陸上機に関しては経験がやや浅く、海軍内部の技術者の中から計画を懸念する声も聞かれた。このような状況を受けて、改めて審査の席が設けられ、その結果として計画にゴー・サインが出されている。
当初の予定では、できるだけ速く実用化するため強風の設計を極力流用することになっていた。しかしエンジンを火星からより高出力の誉(ほまれ)に換装したことなどにより、各部に設計変更が必要となり、外観こそ似ているものの別の機体といえるほど手が加えられた。ただし水上機の強風譲りの中翼は変わらず、そのため主脚が長くなっている。
こうして完成した機体は、紫電11型とされ、紫電(しでん)と略して呼ばれた。
だが紫電は、自動空戦フラップや引込脚の不調、そして何よりも、プルフィーングが足りない誉の不具合に悩まされ、実戦部隊で高い評価を得ることができなかった。このことについて、当の川西も満足していなかった。というのも、紫電には素質として良い点もあったからだ。
そこで、水上機だった強風に由来する中翼配置を零戦のような低翼配置に改め、直径の大きな誉に合わせて胴体のデザインや各翼の位置を修正。自動空戦フラップの信頼性も向上し、さらに、逼迫する戦況に対応すべく生産性向上と原材料節約の観点から、紫電よりも部品数を減した紫電21型が開発された。そしてこの機体は、紫電改(しでんかい)と呼ばれることになった。
紫電改はきわめて優れた戦闘機で、パイロットの腕さえともなえば、零戦や雷電では荷が重かったグラマンF6Fヘルキャット、ヴォートF4Uコルセア、ノースアメリカンP-51マスタングといった強力なアメリカ製戦闘機と互角に戦うことができた。特に、紫電改を優先的に配備された第343海軍航空隊は、本土防衛に参加して大活躍をはたしている。
かくして紫電改は、戦争末期の日本本土防空戦の勇戦をもって、海軍航空隊の戦いに最後の煌(きらめ)きを添えたのである。
なお、連合軍は本機を“George”のコードネームで呼んだ。