零戦の前段階に誕生した「もうひとつの傑作機」:96式艦上戦闘機(A5M)
太平洋戦争日本海軍戦闘機列伝 第1回 ~海原の碧空を飛翔した日の丸のファイターたち~

飛行中の96式艦上戦闘機。胴体下面に航続距離を延ばすための増槽が見える。
1930年代中頃、日本海軍は、まだ複葉の95式艦上戦闘機を運用していた。しかし1920年代末から1930年代のこの時期にかけて、航空技術は世界的に急速な進歩を遂げており、複葉機では近々に旧式化することが明白だった。
そこで日本海軍は、近代的な次世代の戦闘機を求めて9試単座戦闘機を発注することにし、試作の要請が三菱航空機と中島飛行機に出された。試作機の完成は1935年で、審査の結果、三菱案が採用となった。
こうして誕生した96式艦上戦闘機は、続いて零戦を手がけることになる堀越二郎の設計で、海軍の制式機としては初の全金属製低翼単葉機だった。
また、96式陸上攻撃機と共に、日本機として初めて沈頭鋲(ちんとうびょう)を全体に使用した。小さな鋲の頭だが、数がまとまると大きな空気抵抗となる。だが、頭が飛び出していない鋲の使用で、この空気抵抗を解消でき、性能の向上につながった。加えて、日本製実用機種として初めてフラップを採用している。
主脚については、開発時期的に引込脚も実用化されていたが、脚部構造の重量増加を避け、さらに最前線の未舗装滑走路でのラフな運用を考慮して、あえて固定脚とし、フェアリング(覆い)をかぶせて空気抵抗の削減を図った。
96式艦戦は開放式コックピットを備えていたが、転覆時などにコックピットが潰されてパイロットが死傷する恐れがあった。そこで、着陸時にフラップを作動させると、連動式のセーフティー・バーがコックピットの後方からせり上がるという工夫が施された。機体の転覆時はこのバーが先に接地して、コックピットが潰れるのを防ぐ仕掛けである。
1937年8月22日、日中戦争が勃発したため作戦行動中の空母加賀に96式艦戦が送り込まれた。そして9月4日に中国軍のカーチス・ホークを3機落とし、本機による初撃墜を記録した。さらに同年12月9日には、日本航空史に残る「片翼の帰還」が、樫村寛一(かしむらかんいち)三空曹の96式艦戦によってはたされ、本機の優秀さを広くアピールすることとなった。樫村機は空戦中に中国空軍のカーチス・ホークⅢと空中衝突してしまい、左の主翼の外側を大きく失ったものの、巧みな操縦によって帰還に成功したのである。
その後、零戦が艦上戦闘機として制式化されても、同機の不足を補うために一部の空母での運用が続けられたが、1942年頃には全機引き揚げられて訓練など二線の任務に就いた。96式艦戦は、出現した時代において世界最優秀の戦闘機と言っても過言ではない名機であった。
なお、連合軍は本機をMitsubishiの“Claude”というコードネームで呼んでいた。