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第二次大戦、朝鮮、ベトナムと三つの戦争で活躍した「もうひとつのB-26」:ダグラスA-26インベーダー

第二次大戦アメリカ双発爆撃機列伝 第3回 ~全世界で戦った白頭鷲の使者~

50口径機関銃16挺に加え14発のHVARロケット弾を搭載

ベトナム戦争へ投入するために改修が施されたB-26K。タイ国内の基地を使用すべくA-26A へと改称された。なお、本機を同戦争で運用したのはアメリカ第609特殊作戦飛行中隊だけであった。

 第二次大戦勃発前に開発され、アメリカのみならずイギリスやソ連でも運用されて好評を得た双発攻撃機ダグラスA-20ハヴォック。ダグラス社は1940年、A-20をよりパワーアップした後継機の開発に着手した。

 

 設計上のポイントは、A-20が搭載している1600馬力のライトR-2600ツインサイクロン空冷星型エンジンに代えて、2000馬力のプラット・アンド・ホイットニーR-2800ダブルワスプ空冷星型エンジンを搭載し、速度や兵装搭載能力の向上を図ることと、機体強度の総合的な強化であった。

 

 だがエンジンの技術問題の解決や試作機の開発に手間取り、試作機の完成は19426月であった。そしてフライトテストに臨んだが、細かい修正点がいろいろと生じ、それらが解決されて量産が始まったのは19439月となった。

 

 A-26には、A-20B-25における戦訓を採り入れて、機首の武装が異なる3型が最初から用意されていた。A型は75mm自動装填(そうてん)砲1門に機関銃数挺を装備。B型は機関銃68挺を装備。C型は透明機首でそこにノルデン爆撃照準器と爆撃手が乗るというものだった。

 

 だが、75mm自動装填砲は実戦での運用が難しいことが判明し、以降、B型が主力でC型がそれに次いだ。運動性能に優れ、機体も頑丈だったので低空攻撃に適しており、だからこそ機関銃を多数装備したB型のニーズが大きかったのだ。

 

 そしてこのような事情から、機首に8挺、左右の主翼に3挺ずつ計6挺、さらに背面旋回銃座の2挺を前方に向けることも合わせて、合計実に16挺もの50口径機関銃による掃射能力を備えた機体も登場。しかもこれに加えて、左右の主翼下に計14発ものHVARロケット弾、爆弾倉には爆弾を搭載して地上攻撃に猛威を振るった。

 

 A-26は第二次大戦末期になると、占領した沖縄を発進して九州を攻撃した。そして朝鮮戦争では、日本の基地を飛び立って韓国で戦っている。

 

 さらにジェット機時代となったベトナム戦争でも、A-26は実戦に参加して活躍した。対空兵器が少ない北ベトナム軍が、夜間に物資補給に利用していたホー・チ・ミン・トレイルを遮断するためである。敵の反撃が少ない状況下、大量の兵装を積んで長時間にわたり上空で哨戒(しょうかい)し、通過する敵を見つけたらその都度に攻撃を加えるという任務に最適だったのだ。

 

 2500馬力に出力が強化されたダブルワスプ・エンジンに換装。翼端に燃料タンクを増設し、当時最新の電子機器を積んだA-26A(旧A型とはまるで異なるので注意)は、ホー・チ・ミン・トレイル遮断に大活躍し、1969年に退役した。

 

 なお、第二次大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争と3つの戦争において実戦に参加した戦闘用軍用機は、全世界でこのA-26だけである。

 

 興味深いのは、1948年にアメリカ空軍の機種区分が改定され、このA-26B-26へと変更されたことだ。当時、第二次大戦で用いられたマーチンB-26マローダーは全機が退役していたので問題とはならなかった。

 

 ところが、ベトナム戦争中にB-26がタイの基地から出撃しなければならなくなった際、アメリカ・タイ間の軍事協定でBナンバーを持つ爆撃機にはタイの基地の使用を認めないという条項があったので、再びA-26へと戻された。もっとも、この時にはそれ以前に改めてアメリカ空軍に攻撃機を示すA記号が復活していたので問題はなかった。

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白石 光しらいし ひかる

1969年、東京都生まれ。戦車、航空機、艦船などの兵器をはじめ、戦術、作戦に関する造詣も深い。主な著書に『図解マスター・戦車』(学研パブリック)、『真珠湾奇襲1941.12.8』(大日本絵画)など。

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