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一撃離脱戦法の嚆矢となった重単座戦闘機:二式戦闘機「鍾馗」(中島キ44)

太平洋戦争日本陸軍名機列伝 第6回 ~蒼空を駆け抜けた日の丸の陸鷲たち~

“暴れ馬”と呼ばれた第二次大戦の日本陸海機最良の迎撃戦闘機

側面から見た二式戦二型乙。大直径の空冷星型エンジンハ109を搭載したため機首のエンジンカウリングが大きく、機体の後方に行くにしたがって絞り込まれる独特のシルエットがよくわかる。そのせいで離着陸時の前方視界はやや不良だったが、飛行姿勢では胴体形状や翼の配置などにより視界は良好であった。

 1937年から1938年にかけて、陸軍航空隊は三つの異なるカテゴリーに属する戦闘機の研究と開発に着手した。まずひとつは、それまで世界の空軍で主流だったドッグファイト(格闘戦)性能を重視した軽単座戦闘機。二つめは、重武装で速度を重視しヒット・アンド・アウェー(一撃離脱戦)性能を重視した重単座戦闘機。そして三つめが、長距離双発戦闘機である。

 

 このうち、軽単座戦闘機は「隼」としてすでに紹介したごとくである。これに対して重単座戦闘機も、「隼」と同じ中島飛行機からの陸軍に対する回答であり、「隼」の「キ43」に対して一番違いの「キ44」とされ、ヒット・アンド・アウェー型の戦闘機の嚆矢(こうし)ともいわれるドイツのメッサーシュミットBf109などヨーロッパにおける戦闘機情勢を睨みつつ、その開発が進められた。

 

 だが、「隼」の成功によりやや開発は遅れ、とりあえず出力に劣るハ41空冷星型エンジンを搭載して完成。194010月の初飛行後、増加試作機で部隊を編成し太平洋戦争の緒戦に参加し、その実績により19422月に二式戦闘機「鍾馗(しょうき)」として採用された。のちにハ41を出力向上型のハ109に換装し、性能が向上した二式戦闘機二型(キ44-II)が194212月に採用されている。その結果、それまでのハ41を搭載した二式戦闘機は一型(キ44-I)と称されることになった。

 

 従来の日本製戦闘機に比べて速度は速いが運動性に劣り、着陸速度が速く離着陸時の前方視界が悪い「鍾馗」は、従来の機種に乗り慣れたパイロットには当初敬遠される傾向があった。しかし本機に習熟したり最初から本機に乗ったパイロットは、太平洋戦争中期頃からは常態化したヒット・アンド・アウェーの戦いに適合した機種として、高い評価を下している。

 

 だがそれでも、従来の陸軍戦闘機とは戦闘機としての性格がかなり異なる「鍾馗」について、初期には「暴れ馬」などと呼んで未熟なパイロットを乗せるのを控えた時期もあった。

 

 もっとも、ヒット・アンド・アウェーの戦い向けに開発されたとはいっても、それは日本陸軍内でのドッグファイト性能の基準であり、外国での基準では、「鍾馗」のそれは逆に秀でたものであった。戦後、アメリカ軍は鹵獲(ろかく)した本機を用いて性能評価を行ったが、その結果、「第二次大戦の日本の陸海機の中で最良の迎撃戦闘機」という折り紙を付けられている。

 

 しかし、「大東亜決戦機」と称された優秀な万能戦闘機「疾風(はやて)」の登場により、「鍾馗」は1944年末にその生産は終了した。

 

 なお、連合軍は本機をNakajimaの“Tojo”というコードネームで呼んでいた。

 

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白石 光しらいし ひかる

1969年、東京都生まれ。戦車、航空機、艦船などの兵器をはじめ、戦術、作戦に関する造詣も深い。主な著書に『図解マスター・戦車』(学研パブリック)、『真珠湾奇襲1941.12.8』(大日本絵画)など。

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