日本陸軍が誇る最強のドッグファイター:一式戦闘機「隼」(中島キ43)
太平洋戦争日本陸軍名機列伝 第1回 ~蒼空を駆け抜けた日の丸の陸鷲たち~
アメリカのエースパイロット2名を撃墜・戦死させるほどの高性能な軽戦闘機

鹵獲(ろかく)されアメリカ軍の標識を描かれてオーストラリアのブリスベーンでフライト・テストに供される「隼」。日の丸の機体ではないのが惜しいが、本機の流麗なシルエットを示す飛行中のワンカットなのであえて選んだ。
日本陸軍は1937年、新しい戦闘機として中島飛行機に開発させた九七式戦闘機(中島キ27)を制式採用した。同機は金属製の単葉機ながら主脚は固定式だった。しかしドッグファイト(格闘戦)性能に優れており、採用当初は世界最強のドッグファイターと目されるほどであった。
しかしこの頃になると、ヨーロッパでは、ドイツのメッサーシュミットBf109、イギリスのスーパーマリン・スピットファイアといった、金属製単葉で引込脚を備える、どちらかといえばヒット・アンド・アウェー(一撃離脱戦)で戦う戦闘機が主力となり、配備が急速に進められていた。
このような趨勢(すうせい)に鑑みて、日本陸軍も金属製単葉で密閉式コックピットと引込脚を備えた次期軽単座戦闘機キ43の開発を、再び中島飛行機に指示した。略して「軽戦」と称される軽単座戦闘機の名称からもわかるように、本機には高いドッグファイト性能が求められていた。というのも、当時の日本陸軍はノモンハンの戦いでの九七式戦闘機の活躍から軽戦を評価していたからだ。
とはいえ、日本陸軍も欧米式のヒット・アンド・アウェーで戦う戦闘機の将来性を軽視していたわけではなく、そちらは重単座戦闘機と称して別に開発を進めていた。
キ43の初飛行は1938年12月12日。基本的には優れた機体だったものの、ドッグファイト性能は前作の九七式戦闘機のほうが上だった。だが速度は速かったので、各部に改良を加えて性能向上を図りつつ、戦技面で優位を得られるように工夫された。
かくしてキ43は1941年5月に一式戦闘機として採用され、太平洋戦争開戦後の1942年3月に「隼」の愛称が与えられた。
「隼」は、有名な海軍の零戦とほとんど同じ馬力のエンジンを搭載していたが、零戦よりも固定武装の機関銃が貧弱で、スピードの面でもやや遅かった。しかし一方で、初期型の零戦では皆無だった防御設備について、「隼」には最初から、戦闘機の世界基準では当然と考えられていた、パイロットを守るための装甲板や防漏式の燃料タンクが備えられていた。
前線からの報告では、これら装甲板や防漏式燃料タンクはかなり有効とされている。アメリカ軍が戦中に撮影した戦果確認用ガン・カメラの画像によると、零戦は激しく炎上して落ちて行くケースが多いのに対し、「隼(シルエットが類似する[疾風]も含まれるかもしれない)」は炎の尾を曳く程度で落ちて行くケースが散見されるとも伝えられる。
だが優秀な「隼」も、初期型は主翼構造が脆弱で空中分解事故を起こしたりしたが、のちに改善されている。
のちにアメリカがロッキードP-38ライトニング、リパブリックP-47サンダーボルト、ノースアメリカンP-51マスタングといった大馬力、高速、大火力、重防御の戦闘機を投入してくると、「隼」は苦戦を強いられるようになった。だが逐次改良も施されており、ベテランのパイロットが操縦する本機なら、これらのアメリカ機とも十分に渡り合えた。
事実、21機撃墜のエースのニール・カービィ大佐が操縦するP-47D型や、同じく38機撃墜でアメリカ全軍第2位のエースのトーマス・マクガイア少佐が操縦するP-38L型を撃墜し、両名を戦死させたのは、共にベテランが乗った「隼」であった。
このように日本陸軍の「隼」は、同時代の世界の軽戦闘機の中でも、図抜けて優秀な機体だったことは間違いない。
なお、連合軍は本機をNakajimaの“Oscar”というコードネームで呼んでいた。