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一時は多砲塔戦車がマイブームとなった赤軍:T-28とT-35(ソ連)

究極の「陸上軍艦」多砲塔戦車 第4回 ~ 戦場を闊歩する夢想の無敵巨大戦車 ~

乗員11名の巨大重戦車は威圧感だけの“見かけ倒し”だった⁉

ドイツ軍よって鹵獲(ろかく)されたT-35多砲塔重戦車。主砲塔上のドイツ軍兵士と比較すると本車の大きさがよくわかる。76.2mm砲1門(主砲塔)、45mm砲2門(副砲塔2基)、機関銃6挺(銃塔他)という重武装だった。

 世界初の社会主義革命によって誕生したソ連は、以降、世界中の列強から「革命の輸出」を警戒されて国交が希薄になっていた。だがそのような状況下でも、「革命の主役」をはたした赤軍軍部(ソ連軍)は、軍の革新に努力していた。

 

 このような背景のなかの1920年代末から1930年代初頭にかけて、ソ連陸軍は、敵陣突破と対戦車戦闘の両方に効果的な戦車が必要だと判断し、さまざまな検討を加えた末に、かような任務には多砲塔戦車が向いているとの結論を得た。そこで、研究開発上の参考とすべく当時最新だったイギリスのインデペンデントの購入を試みたものの、それは叶わなかった。

 

 やむを得ず、ソ連陸軍は独自に多砲塔戦車の開発を開始したが、当時はドイツとの間のラパッロ条約が有効だったので、ドイツからも多砲塔戦車に関する技術情報を得ていた可能性は高い。

 

 こうしてソ連陸軍は、多砲塔戦車の研究開発を急速に推進。重戦車と中戦車の設計を同時並行的に進めて、T-28多砲塔中戦車とT-35多砲塔重戦車を造りだした。

 

 実用化はT-28が先で、乗員数6名、車体中央部に76.2mm砲を備える主砲塔、車体前部の左右に機関銃を備える銃塔を1基ずつの計2基備えていた。つまり、砲塔と銃塔を合計3基備える多砲塔の中戦車であり、1933年に制式化された。

 

 なお、T-28の総生産数は503両で、これは多砲塔戦車の世界最多生産記録である。

 

 このT-28よりもやや遅れたものの、多砲塔重戦車として完成したT-35は、乗員数なんと11名、車体中央部に76.2mm砲を備える主砲塔、これに加えて、車体前部の左右に1基ずつ2基、車体後部の左右に同じく1基ずつ2基の、前後で計4基もの銃塔を備えていた。ただし、前の銃塔と後の銃塔のうちのそれぞれ1基は、機関銃ではなく45mm砲を備えていたので、副砲塔と呼ぶべきものだった。総生産数は、この手の戦車としては多い63両にも及ぶ。

 

 このように、ソ連陸軍は多砲塔戦車に重点を置いた時期があった。確かに外観上の威圧感は大きく、民衆へのアピール度が高いので、国民を主導しなければならない赤軍軍部にとっては、きわめてプロパガンダ性の高い戦車といえたからだ。また実用性の面でも、第一次大戦時のように、幾重にも重なった長大な塹壕(ざんごう)線を、歩兵を先導して次々に突破して行くような戦い方には、それなりに適しているともいえた。

 

 しかし1941年に始まった独ソ戦では、「銃塔が付いた中戦車」T-28は「劣悪な性能の中戦車」として、それなりの損害を被りつつ戦ったが、T-35は散々であった。

 

 大きいため戦場では目立つ存在であるにもかかわらず、装甲が脆弱なので攻撃に弱いうえ、車内での連携がうまくとれず主砲塔と4基の銃塔がまるでばらばらにしか戦えないので、車長による火力の集中や統制した戦闘が不可能だったのだ。

 

 とはいえ、T-35が初めて経験した実戦(とされる)である独ソ戦の初期には、ドイツ軍の3.7cm対戦車砲弾が何発も命中して穴だらけになり、車内に死傷者が多数生じた絶望的な状況下でも、脱出することなく残存する砲塔や銃塔にこもって戦い続けた勇敢な乗員たちもいたという。

 

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白石 光しらいし ひかる

1969年、東京都生まれ。戦車、航空機、艦船などの兵器をはじめ、戦術、作戦に関する造詣も深い。主な著書に『図解マスター・戦車』(学研パブリック)、『真珠湾奇襲1941.12.8』(大日本絵画)など。

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