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実戦に参加できたのは戦車不足のおかげ:NbFz(ドイツ)

究極の「陸上軍艦」多砲塔戦車 第3回 ~ 戦場を闊歩する夢想の無敵巨大戦車 ~

生産台数および実戦投入されたのはわずか3両のみ

1940年4月19日、ノルウェーのオスロ港を進むホルストマン小隊に所属する3両のNbFz。防弾鋼板で造られており実戦への投入が可能な本車は、この3両が全てであった。

 第一次大戦に敗れたドイツは、戦勝国が策定したヴェルサイユ条約によって、戦車を始めとする近代的な兵器の開発と保有を禁じられた。だが実は、国外や国内の企業で秘密裡にそれらの開発や基礎研究を進めており、1935316日の再軍備宣言時には、技術的な基礎は構築されていた。

 

 戦車の開発に余念がなかった陸軍は、もちろん多砲塔戦車にも着目しており、特にイギリスのインデペンデントを評価していた。そこで1932年、ドイツにおける戦車や火砲の老舗であるクルップ社とラインメタル社に対し、NbFz(ノイバウファールツォイクNeubaufahrzeugの略。「新製造車」の意)の名称で、多砲塔戦車が発注された。

 

 このNbFzは、車体の中央部に主砲塔を、また、右前部と左後部に銃塔が装備されていた。二つの銃塔は、I号戦車のものに類似した形状で、7.92mm機関銃1挺を搭載し、自車に接近してくる歩兵への対策とされた。

 

 一方、主砲塔は、ラインメタル社製とクルップ社製で形状が異なっていた。前者は7.5cm砲と3.7cm砲を上下同軸で搭載していたが、後者は両砲を並列で搭載しており、さらにどちらの砲塔にも、7.92mm機関銃1挺が備えられていた。

 

 1934年、ラインメタル社とクルップ社の砲塔を装備した軟鋼製の試作車が1両ずつ、計2両完成。この両車を用いた厳しい実用試験が繰り返された結果、クルップ社製砲塔の方が優れていると判断された。

 

 かくして1935年、防弾鋼板で造られたクルップ社製砲塔を装備する実戦用先行試作車3両が発注され、翌1936年に全車が軍に納品されている。

 

 だがその間に、ドイツ軍の戦車運用コンセプトの変遷や対戦車兵器の強力化などが起こり、NbFzに対するニーズが急速に薄れてしまったため、それ以上の台数が生産されることはなかった。

 

 ところが第二次大戦が始まると、ドイツ陸軍は1両でも多くの戦車を必要とした。そこで、防弾鋼板で造られたNbFz 3両で第40特別戦車大隊の第3中隊に所属する1個小隊を編成し、戦場テストを兼ねて実戦に投入されることになった。

 

 小隊長のハンス・ホルストマン中尉の名を冠してホルストマン小隊と命名されたこの小隊は、19404月の「ヴェーザーユーブンク」作戦(ノルウェー侵攻作戦)に出動し、対戦車兵器が少ないノルウェー軍を相手にそこそこの戦いぶりを示した。しかし1両が故障して行動不能に陥り、味方の手で自爆処分に付されている。

 

 その後、残された2両は1941年の「バルバロッサ」作戦(ソ連侵攻作戦)に投入されたが、すぐにドイツに引き揚げられた。

 

 なお、一説によるとNbFzの開発に際しては、イギリス陸軍准大尉で対独協力者となり、のちに対英プロパガンダ放送のパーソナリティーである「ホーホー卿(複数の人物が演じた)」のひとりに数えられたノーマン・ベイリー・スチュワートが無許可で持ち出した、インディペンデントの設計図や性能仕様書などが参考にされたともいわれる。

 

 

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白石 光しらいし ひかる

1969年、東京都生まれ。戦車、航空機、艦船などの兵器をはじめ、戦術、作戦に関する造詣も深い。主な著書に『図解マスター・戦車』(学研パブリック)、『真珠湾奇襲1941.12.8』(大日本絵画)など。

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