「赤い星の巨大スチームローラー」を導いた蒼空の案内人:ペトリヤコフPe-2R戦術偵察機
第2次大戦:蒼空を翔け抜けた「スパイ・アイ」 第7回 ~戦況を左右する敵情を探る「空飛ぶ目」 偵察機列伝~
水平、緩降下、急降下爆撃が可能なPe-2を母体に航空カメラを配備

ペトリヤコフPe-2。ご覧のように双垂直尾翼を備えた双発機で、地上や洋上の爆撃任務の他に、偵察や連絡といった雑役任務にも重宝された。総生産機数は約1万1400機と伝えられる。
広大な国土を擁するソ連は、帝政ロシア時代から陸軍大国として君臨してきた。そのため、偵察は地上を快速で進むことのできる騎兵などの兵科に託され、航空偵察が重要視されるようになったのは、第2次大戦前夜ぐらいからであった。
しかし1930年代はスターリンによる大粛清の嵐が吹き荒れ、特に中産階級以上、あるいは知識階級の出身者が必然的に多くなるスノッブな空軍は、陸軍以上に大粛清の被害を蒙(こうむ)ってしまった。そのため、独ソ戦が勃発した時点でのソ連空軍は、かなり弱体化した状態だった。
かような情勢下、再構築を図っていたソ連空軍は、高高度戦闘機を求めた。そこで金属製主翼の研究で高い評価を得ていたが、大粛清により服役していた航空機設計技師ウラジミール・ミハイロヴィッチ・ペトリアコフに対し、刑務所内に設計局を設けて、設計を行わせた。
こうして開発された3座双発高高度戦闘機VI-100の初飛行は1939年。当時としては優れた機体だったが、同機が迎撃すべき高高度爆撃機を擁する仮想敵国が存在しないという理由から、高速軽爆撃機へと変換することになった。
VI-100の双発高速軽爆撃機型は、PB-100の名称で開発が推進された。そして1941年から量産が開始され、設計番号も、ペトリヤコフの頭文字を冠したPe-2に改められた。
Pe-2は双発軽爆撃機としては優れた機体で、水平爆撃のみならず、緩降下と急降下のどちらの爆撃も行うことができた。ただ、VI-100が備えていたターボチャージャーは外されていたが、軽爆撃機や対地攻撃機は低空を這うように飛行する戦術を用いていたソ連空軍は、本機に高高度性能はあまり求めなかった。つまり、開発段階とは全く逆の運用がなされたのである。
このように、Pe-2は優秀な機体だったので、それまで航空偵察を重視していなかったソ連空軍では、本機を爆撃任務の他に偵察任務にも用いた。当初は爆撃型をそのまま偵察に使うのが普通だったが、戦争の進捗にともなって、地上部隊にとり戦術航空偵察の重要性が認識されるようになった。
そして「赤い星の巨大スチームローラー」とも称されたソ連軍の巨大戦車軍団に、空から得た偵察情報を供給する役割がいっそう重視されるようになると、燃料搭載量を増やして航空カメラを備えた本格的な偵察型のPe-2Rも少数だが造られて重宝された。
なお、設計者のペトリヤコフは1942年1月12日、Pe-2の事故によって逝去した。