帝都の空を守った「震天制空隊」の勇者:三式戦闘機「飛燕」(川崎キ61)
太平洋戦争日本陸軍名機列伝 第5回 ~蒼空を駆け抜けた日の丸の陸鷲たち~
液冷エンジンを搭載した“ミートボールのメッサーもどき”

空冷エンジンを搭載したため機首部分に大きなカウリングが取り付けられているそれまでの日本戦闘機とは異なり、ご覧のように「飛燕」の機首は、同じ液冷エンジンを備えたスピットファイア、Bf109、P-51のようにほっそりとした形状であった。だが慣れない液冷エンジンの製造や整備に足を引っ張られることとなった。
第二次大戦頃の航空機用エンジンは、大別すると空冷エンジンと液冷エンジンの2種類に分けられた。このうち、航空機が受ける空気の流れでエンジンを冷却する空冷エンジンは、特別な冷却機構を用意せずに済むので製造は容易だが、冷却のための空気の流れが空気抵抗を生み、それが速度の低下をもたらした。これに対して液冷エンジンは、冷却装置と冷却液で冷やすのでエンジンに直接冷却用の空気を当てる必要がなく、エンジン周りを極力空気抵抗が生じないように設計できた。
反面、液冷エンジンは冷却装置も含めてその構造が複雑で、設計と製造にそれなりの技術力が必要だった。明治維新以降、急速に工業技術力を培ってきた日本は、航空関連技術も著しい速度で向上させてきたが、機体のような、言うならば「器」に関しては世界水準を超えるものが造れるようになっても、蓄積した技術力と工作精度の高さが求められるエンジンや無線通信機器、航空機関銃などの、言うならば「乗せ物」に関しては、まだ弱い部分も多かった。
日本陸軍は、当時のヨーロッパでは液冷エンジン搭載の戦闘機が主流になっていたことから、ドイツのダイムラーベンツ社が開発し、名機メッサーシュミットBf109に用いられているDB601液冷エンジンをライセンス生産して、川崎航空機に開発を依頼している新しい戦闘機に搭載することにした。
そこで1939年に川崎はダイムラーベンツ社からDB601のライセンス生産権を購入。ところが同時期、海軍もまたDB601に興味を示しており、陸軍とは別に、愛知航空機が改めて料金を支払って海軍のためのライセンス生産権を購入したのだった。
しかし、例えば当時、次のような動きもできたのではないだろうか。
海軍も陸軍も、元をただせば「日本の国軍」である。そして両者は、それぞれが互いに同じDB601のライセンス生産権の取得を目指していることを知っていたという事実がある。ならば海軍と陸軍が、国軍にとっての「川の上流」に相当する日本国政府に申請し、日本国が、ダイムラーベンツ社から一括でライセンス生産権を購入する。こうして「国家の看板」でのライセンス生産権の購入後に、海軍と陸軍はそれぞれが必要とするDB601の数や納期について調整し、その条件を満たせるエンジン・メーカーを選んで国に報告。国は、海軍と陸軍が指定したエンジン・メーカーに対してDB601の技術情報などを提供し、以降の生産を託せばよいだけのことだ。
もちろん、歴史を「後知恵」的に断じてはならない。だが上に立つ「日本国」と、その下の左右に並立する「海軍」と「陸軍」。本来なら密接な関係にあるべきこの三者の間で、常識的な「物事の順番の整理」と、わずかこれだけの情報の交換や共有ができないということに加えて、当時の海軍機と陸軍機の航空機関銃や無線通信機器などの共用性のなさなどを傍証として、この事例は、まさに「同じ国の海軍と陸軍なのに互いに反目している」といわれる逸話の証拠のひとつといえるのではないだろうか。
さて、川崎はDB601のライセンス生産型であるハ40を搭載した新しい戦闘機を開発。本機は1943年10月に三式戦闘機「飛燕(ひえん)」として採用された。本機と初めて対戦したアメリカやイギリスのパイロットたちは、その外観から、Bf109やイタリアのマッキMC.202フォルゴーレのライセンス生産かコピーを疑ったという話が知られている。
「飛燕」は相応に優れた戦闘機だったが、大きな弱点もあった。それまで空冷エンジンの整備と取扱に慣れた整備兵たちにとって液冷のハ40は取扱にくく、しかも、やはり慣れない液冷エンジンの製造段階での素材や工作精度などの問題により、エンジンの整備や性能維持が難しかったのだ。
だが、本機の整備に習熟した部隊では優れた戦果をあげており、アメリカ軍パイロットたちは「ミートボール(日本機の胴体や主翼に描かれた「日の丸」の蔑称)のメッサーもどき」を強く警戒していたという。
かような「飛燕」がその名を轟かせたのが、ボーイングB-29スーパーフォートレスに対する、帝都防衛と「震天制空隊」の死闘であろう。
「必死」の空対艦(くうたいかん)体当たり攻撃を推進した海軍に対し、当初、陸軍はそれには積極的でなかった。だが本土空襲が激化すると、B-29に対する空対空(くうたいくう)体当たり攻撃を発案。特に帝都防空の空対空体当たり攻撃隊は「震天制空隊」と命名され、「飛燕」を主用な機材とした。
空対艦とは異なり、空対空の体当たり攻撃は、パイロットの腕次第で脱出や不時着による生還が十分に可能だ。陸軍としては、体当たり攻撃でB-29を撃墜して生還し技術を身に付けたパイロットが後進を教育したり、再出撃、再々出撃により戦果を重ねることを期待しており、「必死」ではなく、逆に「生還」を求めていた。そして西にも、同様の任務を帯びた「回天隊」が存在していた。
「震天制空隊」は、それほど大きな戦果をあげたわけではなかった。しかし体当たり攻撃によって帝都の空を守り、しかも可能な限り生還を求められていたという、辣腕(らつわん)歴戦のパイロットが名を連ねた、決して「必死」の特攻隊ではない同隊の究極の勇気と栄光は、今も航空史に語り継がれている。
なお連合軍は、本機をKawasakiの“Tony”というコードネームで呼んでいた。