良好な生残性で高く評価された陸軍の「欠陥名機」:一〇〇式重爆撃機「呑龍(どんりゅう)」(中島キ49)
太平洋戦争日本陸軍名機列伝 第2回 ~蒼空を駆け抜けた日の丸の陸鷲たち~
航続距離性能に優れるも安易に炎上しやすい蔑称「一式ライター」

垂直尾翼に浜松陸軍飛行学校の学校章が描かれた一〇〇式重爆撃機「呑龍」。エンジンの初期不良で泣かされたが、それがある程度改善されてからの本機は、その生残性を高く評価されることも稀ではなかったという。
第一次大戦後の戦間期、日本海軍が太平洋方面の広大な海原を主戦場と考えていたのに対し、日本陸軍はユーラシア大陸の中国やソ連を主戦場と考えていた。つまり、同じ国の海軍と陸軍であったにもかかわらず、両軍の関係は同床異夢(どうしょういむ)だったといえる。
そして、それらの仮想敵国のうち特に強力なソ連に対する戦い方として、「鳥は巣にいるうちに巣ごと始末してしまえ」という航空戦理論に基づく航空撃滅戦を実施するべく、沿海州やシベリア奥地のソ連航空基地を爆撃可能な航続距離の長い機体が、陸軍の基本的なニーズであった。
このニーズはすでに九七式重爆撃機(三菱キ21)によって達成されており、同機を更新するべく開発されたのが、一〇〇式(ひゃくしき)重爆撃機「呑龍」(中島キ49)であった。
1941年に制式化された「呑龍」は、護衛の戦闘機なしで爆撃任務が達成できる重防御の爆撃機として設計された。そのため防御火力も防弾設備も前作の九七式重爆より強化されてはいたが、やはり戦闘機の護衛なしで迎撃の敵戦闘機と渡り合うのは困難であった。もっとも、どこの国の多発爆撃機でもこれは同じで、例外はイギリスのデハビランド・モスキートの戦闘爆撃型ぐらいではあったが。
航続距離を重視しすぎたあまり、燃料タンクや乗員区画の防弾をおろそかにした海軍の一式陸攻は、燃料タンクに被弾すると容易に炎上して墜落するので「一式ライター」「ワンショット・ライター」と称された。この蔑称(べっしょう)については、後年付与されたもので戦時中はこうは呼ばれなかったともいうが、実際に乗って戦い、生き残った乗員の少なからぬ人々が、同機の燃えやすさを証言している。
もちろん陸軍も航続距離は重視していたが、燃料タンクや乗員の防弾をおろそかにしてまでそれを延ばそうとは考えていなかった。それでも「呑龍」はかなりの航続距離を誇っている。しかも、味方の護衛戦闘機が付いているとはいえ敵戦闘機の大編隊に迎撃された際なども、帰還後、修理不能でスクラップにするしかない大損害を被った機体がかろうじて生還するということがちょくちょくあった。
初期に搭載した中島ハ41空冷星型エンジンの不具合のせいで、「呑龍」は当初の評判こそよくなかったが、ある程度不調を克服して順調に実戦に参加するようになってからは、敵機にこてんぱんにやられて帰還後に乗機がつぶれたとしても、乗員が生還できる爆撃機として高い評価を受けたという。そして乗員さえ生きて帰れば、新しい機体に乗って再び出撃できるうえ、九死に一生を得た生還者の戦訓は、貴重な経験として先輩から後輩へと語り継がれ、それがひいては隊員全員の追体験となり、部隊全体の経験値を引き上げることにつながる。
これが、「呑龍」をして時に「欠陥名機」といわしめたとも伝えられたという背景にあるようだ。
なお、連合軍は本機をNakajimaの“Helen”というコードネームで呼んでいた。