海軍も着目したもうひとつの「大東亜決戦機」:四式重爆撃機「飛龍」(三菱キ67)
太平洋戦争日本陸軍名機列伝 第4回 ~蒼空を駆け抜けた日の丸の陸鷲たち~
搭載燃料次第では曲芸飛行も可能だった“運動性”と“機体強度”

太平洋戦争に参加した日本の双発爆撃機(陸軍の「重爆」と海軍の「中攻」)の集大成ともいうべき傑作機「飛龍」。戦争後期に登場したので総生産機数が約630機ほどと少なく、全体に搭乗員の練度も決して高くはなかったのが惜しむべき点ながら、それでも見事な活躍ぶりを示したことが本機の優秀性を物語っているといえよう。
三菱重工業は陸軍の発注により、一〇〇式重爆撃機「呑龍(どんりゅう)」の後継機の開発設計に着手した。三菱といえば、海軍の九六式陸上攻撃機や一式陸上攻撃機といった、陸軍の「重爆」に相当する「中攻」を手掛けてきたメーカーで、双発爆撃機にかんしては技術的蓄積があった。
一方、陸軍は新しい重爆に対して、爆撃機に要求される「長い航続距離」「堅牢な防御力」「多い爆弾搭載量」という三大要素のうち、九七式重爆や「呑龍」以来続いている、爆弾搭載量を犠牲にしても航続距離と防御力を充実させるという従来の方針を引き続き示した。これは、防御力を犠牲にして航続距離や爆弾搭載量の充実を優先させた海軍の九六式陸攻や一式陸攻の厳しい戦訓との比較で、自分たちの方針が間違いなかったという陸軍の自信の表れともいえる。
三菱側は、海軍の要求を具現化した「陸攻」の大弱点である「防御力の弱さ」を知り抜いていただけに、この陸軍の要望を「至極まっとうなこと」として開発に臨んだ。そして1942年12月27日に試作1号機が初飛行。必要に応じて爆弾搭載量を減らしてもよいという設計方針のおかげで、双発爆撃機にもかかわらず、きわめて良好な運動性に加えて急降下爆撃能力まで備えており、爆弾を搭載せず、燃料搭載量もある程度減らした状態なら、曲芸飛行も行えるほどの運動性と機体強度があるとまで評された。
陸軍は1944年に四式重爆撃機「飛龍(ひりゅう)」として採用し、単発単座戦闘機「疾風(はやて)」と並ぶ「大東亜決戦機」として重点生産機種に指定。さらに本機の良好な飛行特性に鑑み、陸軍の重爆として初めて雷装が可能とされた。
というのも、アメリカ陸軍航空軍やイギリス空軍では戦前から双発爆撃機による洋上攻撃と雷撃は当然のこととされていたが、日本では太平洋戦争開戦後も、長らく双発爆撃機では海軍航空隊の中攻だけが洋上攻撃と雷撃を担っていたのだ。
かくして、優秀機の折り紙を付けられた「飛龍」を装備する陸軍飛行隊の一部は、当初の計画では悪天候下の航空雷撃を主戦法とした海軍のT攻撃部隊に組み込まれ、海軍名で「靖国部隊」と呼ばれて雷撃訓練を受け、台湾沖航空戦に参加している。そのため海軍では、非公式ながら本機を「靖国」と呼ぶこともあった。
なお、雷撃時は海面上を超低空で飛行するうえ、戦争末期になると夜間雷撃が多くなったことから、雷撃能力を備えた「飛龍」には、索敵用のタキ1号電波警戒機(レーダー)と、夜間の雷撃低空飛行時に正確な高度を知るためのタキ13号電波高度計を備えた機体も少なくなかった。
ちなみに、連合軍は「飛龍」をMitsubishiの“Peggy”というコードネームで呼んでいた。