日本本土初空襲をこなしたアメリカ双発爆撃機きっての「軽業師」:ノースアメリカンB-25ミッチェル
第二次大戦アメリカ双発爆撃機列伝 第1回 ~全世界で戦った白頭鷲の使者~
離着陸の高性能を活かし空母からの発進も可能

洋上飛行中のノースアメリカンB-25ミッチェル。機首の下から突き出している昔のTVアンテナのようなものは、初期の機載レーダーに用いられていた八木アンテナ。
ドイツ総統に就任したアドルフ・ヒトラーが強圧的な外交を繰り広げ、ヨーロッパに戦雲が垂れ込めつつあった1938年3月18日、アメリカ陸軍航空隊は、新しい双発攻撃機の仕様書を提示した。
そこでノースアメリカン社は、当該の仕様書に適合した機体の設計を立ち上げ、NA-40という社内名称で提案。1939年1月29日に初飛行した同機は、当初搭載していたプラット・アンド・ホイットニーR1830「ツイン・ワスプ」空冷星型エンジンを、より大馬力のライトR-2600「サイクロン」空冷星型エンジンに換装し、改良型のNA-40Bへと改称された。
ところが1939年4月11日、着陸時に事故を起こして全壊してしまい、ダグラス社の競合機であるDA-7A(のちのA-20ハヴォック)に敗れてしまった。
しかし、戦争の足音が忍び寄っていた当時の時代背景は、ノースアメリカン社も含めた航空機メーカーにとってビジネス上の追い風となった。アメリカ陸軍航空隊は新たに双発中型爆撃機の仕様書を提示し、これにエントリーしたマーチン社案とノースアメリカン社案がともに採用されたのだ。
マーチン社が提出した社内呼称モデル179は先進性と高性能を認められ、制式番号B-26として開発が進められる一方、ノースアメリカン社提出のNA-40Bを発展させた社内呼称NA-62もまた、B-25として同時並行で開発が進められることになったのである。つまりアメリカ陸軍航空隊としては、近い将来に戦争が起こるかもしれないという現実を踏まえて、革新的なB-26と保守的なB-25の「競作」であると同時に、互いが「保険」の役割をはたすよう考慮したのだ。
するとやはり、先進性と高性能を狙ったB-26は、優れてはいるがクセの強い機体として完成した。だがB-25のほうは、クセがなく飛行安定性に優れ、新米パイロットでもたやすく飛ばすことができ、頑丈で整備も容易、そのうえ機動性にも優れた使い勝手のよい機体に仕上がった。
こうして制式化されたB-25にはミッチェルの愛称が付与されたが、これは「アメリカ軍事航空の父」とも呼ばれるウィリアム・ランドラム・ミッチェル(少将)の名前で、アメリカ軍用機で愛称に個人名が与えられた唯一の例とされる。
堅牢で運動性能に優れるという特徴から、B-25は単に水平爆撃用の中型爆撃機としてだけでなく、50口径の前方固定機銃10数挺に加えて75mm加農砲を装備し、さらにロケット弾まで搭載した低空襲撃型も造られ、特に急造の野戦滑走路や劣悪な整備環境での運用を余儀なくされる太平洋戦域で重宝された。
しかも離着陸性能に優れていたので、空母からの発進という「荒業」にも対応できた。そのため1942年4月18日の「ドゥーリトル空襲(東京初空襲)」の使用機に選ばれて空母ホーネットを発艦。東京、横須賀、神戸などを爆撃した。
なお、第二次大戦を戦い抜いたあと、戦後にかなりの機数のB-25が民間に払い下げられ、ビジネス機やムービー画像撮影機などとして長らく使われた。