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数々の伝説を生んだ傑作戦闘機:零式艦上戦闘機 21 型・32型

太平洋戦争日本海軍戦闘機列伝 第2回 ~海原の碧空を飛翔した日の丸のファイターたち~

1941年12月8日、パールハーバー攻撃に向けて空母翔鶴から発艦準備中の零戦21型。当時、零戦は事実上の無敵戦闘機といえた。

 

 96式艦上戦闘機という傑作機を手に入れた日本海軍は、同機に続く世界をリードする性能の艦上戦闘機の開発を求めた。これが12試艦上戦闘機で、1937年に三菱航空機と中島飛行機に試作の要請が出された。

 

 だが、96式艦戦よりもいっそう厳しくなった海軍側の要求に、中島は途中で辞退。三菱でも、96式艦戦をものにした堀越二郎らですら、前作よりさらにハードルが高くなった要求性能に頭を抱えることなった。

 

 こうして、再度堀越が主務者となって設計が始まった。海軍の要求は、軽快な運動性と優れた速度性能、長い航続距離、重武装を望むもので、この全てを満たす要求に対して、堀越が何かを犠牲にしなければならないことを示すと、防御能力がそれにあてられた。つまり防弾関連の重量を削減することで、それ以外の要求を実現するという方法が選ばれたのだ。

 

 さらに零戦の重量削減策として有名なのが、フレームに多数の孔(あな)を開けるという工程上の手間をかけて、強度を損なうことなく材料の中抜きを行い、その分の重量を浮かせたという逸話だろう。

 

 また、20mmという当時としては大口径で威力のある機関銃を搭載したが、同じく搭載していた7.7mm機関銃と弾道特性が異なるため、この両方の機関銃を巧みに使うにはパイロットの腕が大きくものを言った。

 

 かくして193941日に試作1号機が初飛行を行い、19407月に零式艦上戦闘機11型が制式採用された。そして同年中に中国での戦闘に出撃し、その驚異的な性能を発揮して中国空軍機を片端から撃墜。このとき、現場部隊から防弾についての要望の声も一部聞かれたが、勝ち戦だったため立ち消えになってしまった。

 

 太平洋戦争が始まると、零戦の主力は21型となっていた。同時代のアメリカのカーチスP-40トマホークやグラマンF4Fワイルドキャット、イギリスのホーカー・ハリケーンやスーパーマリン・スピットファイアなどは、熟練パイロットが操る零戦の巧みな空戦術によってバタバタと撃墜された。それまで、航空技術の後進国と思われていた日本の戦闘機に太刀打ちできないアメリカやイギリスのパイロットのみならず航空機メーカーも、「ゼロファイターの脅威」の前に、対抗策を講じるべく急遽研究を進めることになった。

 

 戦前から零戦で訓練を重ね、中国で実戦を経験してきた日本のパイロットの技量はそれこそ神業にも例えられるほどで、連合軍パイロットにとって零戦は恐怖の的であった。

 

 しかしもちろん、連合軍側も強敵である零戦の研究を怠っていたわけではない。不時着した機体などを徹底的に調査して弱点を調べ上げ、それを味方のパイロットたちに周知させたのである。また、零戦よりも大馬力のエンジンを積んだグラマンF6FヘルキャットやロッキードP-38ライトニング、リパブリックP-47サンダーボルトやスピットファイアの出力向上型の登場で、大戦中期になると零戦の優位もかなり揺らぐようになっていた。

 

 このような流れの中で、速度の向上と生産の容易化を図るため主翼端を角型にした零戦32型の生産が開始されたが、前線部隊ではこの改修は嫌われ、結局、主翼端は後の型で元の丸型に戻された。

 

 零戦の圧倒的な優位が揺らぎ始めたのは、ベテランパイロットの不足が目立ち、連合軍戦闘機の性能向上や新型機が登場するようになった1943年頃からである。一方で零戦も、21型や32型から新しい型への移行が始まることになる。

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白石 光しらいし ひかる

1969年、東京都生まれ。戦車、航空機、艦船などの兵器をはじめ、戦術、作戦に関する造詣も深い。主な著書に『図解マスター・戦車』(学研パブリック)、『真珠湾奇襲1941.12.8』(大日本絵画)など。

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