B-29迎撃に活躍した寸胴の局地戦闘機:雷電
太平洋戦争日本海軍戦闘機列伝 第5回 ~海原の碧空を飛翔した日の丸のファイターたち~

イギリス軍に鹵獲(ろかく)されてフライトテストに供される雷電。大型機向けの大直径空冷星型エンジンによる空気抵抗を減少させるため、先細りにされたカウリングから胴体中央部、そしてやはり空気抵抗を減少させる目的で短めに絞り込まれた胴体後部へとつながるデザインがよくわかるワンカット。
太平洋戦争開戦前の日中戦争において、日本海軍航空隊は中国本土で戦った。その際、中華民国空軍の爆撃隊が中国に進出していた海軍の飛行場への爆撃を実施したことで、相応の脅威に晒(さら)された。
そこでこの戦訓に基づき、海軍は陸上基地で運用する地域防衛用の局地戦闘機を求め、三菱重工業にその開発を命じた。これを受けた三菱では、名機の誉れ高い96式艦上戦闘機と零戦を手がけた堀越二郎を設計主務者に据えて開発を開始した。
ちなみに、地域防空と迎撃を主任務とする局地戦闘機には、来襲した敵機を素早く迎撃するための優れた上昇性能、敵爆撃機に追いつくための直進時の高速性能、大型爆撃機に確実にダメージを与えるための大火力などが求められる。
だが当時、日本では小型軽量の戦闘機に向いた大馬力エンジンが完成していなかった。そこで、大型機向けに開発された火星シリーズのエンジンを採用。しかし空冷星型でエンジンの直径が大きいため、先端を絞り込んだカウリングを装着するなどして空気抵抗の低減を図った。
1942年10月、雷電の(らいでん)試作機が初飛行した。その結果、要求された性能はほぼ達成された一方で、エンジンを最大出力で運転すると激しい振動が生じるという大問題が露呈した。そしてこの振動の解決に手間取り、結局、1943年8月にやっと試製雷電とされ、制式採用前にもかかわらず、同年9月に量産が始まった。
ところが実戦部隊に配備されると、予定されていたエンジン出力が得られない、電動の引込脚の故障の頻発といった初期不良が多発。生産ラインでその解決が図られたものの、電気系統は最後まで雷電の弱点であった。
また、軽量で小回りが利き、飛ばしやすい零戦に乗り慣れたパイロットにとって、大型エンジンのせいで前方視界に劣り、着陸速度も速い雷電は、乗り換え直後には操縦のしにくい機体であった。しかし雷電のクセを飲み込んだパイロットは、本機の加速性能と急降下性能の良さを理解し、すでに欧米の戦闘機が実施していたヒット・アンド・アウェー(一撃離脱)戦法を駆使して、撃墜を重ねる者もいた。
特に戦争末期、厚木飛行場に展開していた海軍第302航空隊所属の雷電は、帝都上空に侵入するB-29の迎撃に大活躍している。つまり、局地戦闘機としての使命を十分にはたしたのであった。
一方で興味深いのは、雷電のシルエットがアメリカ海軍のグラマンF6Fヘルキャット戦闘機に似ているため、時に同じ日本の陸軍機やアメリカ軍に誤認される事態が生じたことだろう。
なお、連合軍は本機を“Jack”のコードネームで呼んだ。