不世出で終わった異形の局地戦闘機:震電
太平洋戦争日本海軍戦闘機列伝 第8回 ~海原の碧空を飛翔した日の丸のファイターたち~

特異な形状を示す震電試作機。プロペラが胴体後方にあるせいで緊急脱出時にパイロットが巻き込まれないようにするため、プロペラを飛散させる機構が組み込まれることになっていた。
太平洋戦争当時の単発戦闘機は、世界的に見ても、機体の先端にエンジンとプロペラがあり、その後ろに最大の揚力を生む主翼、そして最後部に垂直尾翼と水平尾翼を備え、前方のエンジンがプロペラを回し、空気を後ろに向けて強く送り出す牽引力によって飛行するのが普通だった。
しかし、より高速性を追求するという観点から、エンジン、武装、翼の配置を改めて見直し、機首に尾翼に代わる前翼を設けて武装を集中。主翼は胴体の後方に配し、エンジンとプロペラを胴体後端に置くという、推進力によって飛行する設計が考えられた。
これは理論的に可能であり、アメリカでもカーチスXP-55アセンダーが開発されたものの、実用化には至っていない。しかし日本海軍航空隊は、激化の一途を辿る戦局に鑑み、高性能次期戦闘機の1機種として、九州飛行機と海軍航空技術廠(こうくうぎじゅつしょう)で、このような特殊な形態を備える機体の開発に着手した。
そして、すでに日本の敗色が確実に増大しつつあった1944年から実際の作業が始まったものの、日本本土空襲の激化やエンジン開発の遅れなどによりスケジュールは大幅に遅延。1945年6月にやっと試作1号機が完成した。だが、滑走試験中にプロペラが地面に当たって破損。その交換などを行い、同年8月3日、終戦まで2週間を切った時期になって、ついに初飛行へと漕ぎ着けた。
そして同月の6日と8日にもフライトテストが続けられたが、エンジントラブルの修理中に敗戦を迎えた。しかも、わずか3回だけ実施されたフライトテストでは一度も脚を引き込んでおらず、最大速度テストも行われていない。そのため震電(しんでん)の実際の飛行性能は未知数のまま、再び飛行する機会は失われた。
ところで、あまりに特異なその形態と、ハイポテンシャルな予定性能値が結びつき、「震電もし戦わば」的な架空の話もいくつか創作されている。だが、完全にハンドメイドの機体に、同じくほぼハンドメイドのエンジンを搭載し、わずかな時間を飛んだだけの試作機と、量産化後の実戦配備機では、当時の日本の国情を考えた場合、性能低下は免れなかっただろう。
そして、アメリカ側が実戦に投入したばかりのリパブリックP-47NサンダーボルトやノースアメリカンP-51Hマスタング、終戦によって量産が中止されたヴォートF2Gスーパーコルセアといった既存機の次世代型や、ジェット機のロッキードP-80シューティングスターなどと震電が互角に戦えたかといえば、それは甚だ疑問と言わざるを得ない。