間に合わなかった零戦の後継優秀機:烈風
太平洋戦争日本海軍戦闘機列伝 第7回 ~海原の碧空を飛翔した日の丸のファイターたち~

武装解除によってプロペラを外された烈風。軽快な外観の零戦に比べて、明らかにアメリカ製戦闘機のような重厚感が感じとれる。もし実戦に参加していたなら、どのような戦いぶりを示したのだろうか。
海軍は、当時としては世界的にも優秀な零戦を手に入れたことで喜んでいたが、同時に、後継となる次期戦闘機についても考えを巡らせていた。そこで三菱航空機に対して、1940年末に16試艦上戦闘機の計画を示した。ところが当時の同社は零戦の改修や雷電の設計で多忙であり、時期をずらして1942年中頃に、改めて17試艦上戦闘機の計画を示した。そしてこれの設計には、もちろん鬼才・堀越二郎を中心とした設計陣があたることになった。
ところがこの17試艦上戦闘機に対する海軍内部での要求性能は、実は二分されるような状況となっていた。ひとつは、先々を見越して欧米のライバル機のように速度性能を重視したヒット・アンド・アウェー(一撃離脱戦)式の空戦を見据えたもの、もうひとつは、相も変わらず零戦並みのドッグファイト(格闘戦)式の空戦ができるという、現状の延長上のニーズである。
結局、海軍の要望は空戦性能を最重視しつつもこの両方を満たすという欲張りなものとなり、堀越はまたしても難題に頭を悩ませることになった。
ところが、三菱は零戦と一式陸攻の生産に忙しく、なかなか17試艦上戦闘機には手が回りにくい状況だった。しかも紫電改が良好な成績を示し、本来は局地戦闘機だが艦上戦闘機への転用も企図されたため、烈風の優先度はややゆっくりとしたものになった。
それに加えて、最初に選ばれた誉エンジンにも問題があった。1944年5月に初飛行した誉(ほまれ)22型を搭載した試作機のA7M1は、まるで所期の性能を発揮することができなかったのだ。そのため海軍は不採用としたが、三菱は誉22型の性能に問題ありと判断し、ハ43エンジンを搭載したA7M2を造り、1944年10月に初飛行に漕ぎ着けた。
このA7M2は優れた性能を発揮したため、海軍は1945年6月に烈風(れっぷう)として制式化した。だが、いくら制式化されても終戦までわずかひと月半では生産もおぼつかず、結局、試作機7機と量産機1機が完成したところで、日本は敗戦を迎えたのである。
このような次第で烈風は実戦を経験していないが、性能面で見る限り、大戦末期のアメリカ機とも互角に渡り合える機体だったと思われる。だが当時の日本海軍航空隊では、経験を積んだ実力あるパイロットが激戦の中で次々に失われて払底(ふってい)していた。そのため、いくら機体の性能がよくても未熟なパイロットが操れば結局は敵に勝てなかったのでは、という推察もなされている。
なお、連合軍は本機を“Sam”のコードネームで呼んだ。