フィンランドの自然に向いたオランダ生まれの戦闘機:フォッカーD.XXI
フィンランド空軍戦闘機列伝 第1回 ~祖国を守った極北の異色ファイターたち~

フィンランド空軍の国籍標識である「青いハカリスティ」を付けて編隊飛行するフォッカーD.XXI。同軍の優秀なパイロットたちは、本機を駆って大戦果をあげている。
オランダを代表する航空機メーカーのフォッカー社は1934年11月、オランダ陸軍航空群に対して、新しい戦闘機の性能試案を提出した。同社の主任設計技師であるエリク・シャハトッツキが手がけたものだった。これを受けた陸軍航空群は、オランダ領東インド(蘭印)陸軍航空隊への配備を考えて1935年初頭、試作機開発にゴーサインを出した。
フォッカーD.XXIと命名された本機は、1936年3月27日に初飛行した。当時の設計としては新しい金属製機体で密閉式コックピットを備えていたが、最新技術だった引込脚は採用されていない。なぜなら、不整地が多く整備環境が劣悪なオランダ領東インドでも、離着陸と整備が問題なく行えるようにという配慮からと伝えられる。
するとフィンランド空軍が、当時としては世界平均をやや上回る性能の戦闘機に仕上がったフォッカーD.XXIに興味を示した。同国の航空産業はオランダよりも遅れており、ゆえに整備に関しても、あまりに技術水準の高い機体では荷が重かった。その点、複雑な構造の引込脚を持たない本機は、整備の面だけでなく、固定脚が堅牢(けんろう)な造りだったのでフィンランドに多い不整地飛行場での離着陸はもとより、スキーを装着した冬場の雪原での運用にも適すると判断されたからだ。
かくしてフィンランド空軍は1937年、フォッカーD.XXIを7機、同社に発注した。さらに同国は本機のライセンス生産権を取得し、タンペレ国営航空機製造会社で90機を生産している。
1939年11月30日、ソ連との間で冬戦争が始まると、フィンランド空軍は、当時保有していた40数機のフォッカーD.XXIを実戦に投入した。同軍のパイロットはソ連軍パイロットに比べて練度がきわめて高く、本機を用いてソ連の爆撃機や戦闘機を多数撃墜。一方、本機も12機が失われたが、ソ連機との交戦での被害はそのうちの6機にすぎなかったという。
そしてこの冬戦争に続く継続戦争でも、フォッカーD.XXIは善戦。後年、別の機種に乗り換えて撃墜記録を伸ばしたフィンランド空軍パイロットの多くも、何機かは本機での撃墜を記録している。特に“ザンバ”のニックネームで知られたヨルマ・サーヴァント中佐(最終階級)は、本機で13機撃墜の戦果をあげた。
なおフィンランド空軍は、第二次世界大戦後の1949年までフォッカーD.XXIを運用していた。