地上部隊支援に大活躍の傑作機:九九式襲撃機(三菱キ51)
続・太平洋戦争日本陸軍名機列伝 第4回 ~蒼空を駆け抜けた日の丸の陸鷲たち~
日本陸軍航空隊には、戦闘機以外にもすぐれた地上攻撃機が存在した。開発の契機となったのは意外にも仮想敵であったソ連軍の戦術であった。

待機中の九九式襲撃機。地上襲撃と偵察を主任務とするため、良好な視界を得られるようにキャノピーが大きく設計されている。
日中戦争、さらにはノモンハン事件のようなソ連との紛争を通じて、日本陸軍は現実の敵である中国に加えて、ソ連も仮想敵としていた。そして陸軍航空隊は、もしソ連と開戦した場合、航空優勢を得るべく同国領内の航空基地とそこに駐機中の敵機群を破壊する、航空撃滅戦の実施を考えていた。
この「鳥がまだ巣にいるうちに巣も含めて叩き、どちらも同時に滅ぼしてしまう」という発想に加えて、仮想敵たるソ連のとある考え方を知った日本陸軍航空隊は、それを優れたものと判断して早速に導入する。
ソ連は帝政ロシア時代から陸軍大国で、陸軍が主導的立場にあった。かような背景も影響して、革命により赤軍へと移行後に航空関連兵力が安定すると、陸軍の最前線部隊を空から支援する「襲撃機(ロシア語ではシュトゥルモヴィーク)」という機種が発案された。
仮想敵国がかような機種の運用を開始したと知ると、日本の場合は陸軍に航空隊が所属していることも手伝って、襲撃機の必要性はすぐに理解され、同様の任務に充てる機体が開発されることになった。ソ連は先行して、1937年に襲撃機としても使える偵察・多用途単発機スホーイSu-2を開発のうえ戦力化していたが、日本陸軍も同機と同様の方向性を模索。
かくして、三菱重工業に対し当初は軍偵察機の名目で、やがて襲撃機を兼ねる機体としてキ51の開発を要請する。これを受けた三菱では、設計主務者に大木喬之助航空設計技師を据えて作業に着手し、1939年6月に試作機を初飛行させた。そして、同機で生じていたわずかな不具合を修正した後の1940年5月、キ51は九九式襲撃機(きゅうきゅうしきしゅうげきき/軍偵察機)として制式採用となった。
単発単葉複座で固定脚の九九式襲撃機は、海軍の九九式艦上爆撃機に似た外観を示す。だが防弾皆無の九九式艦爆が後に海軍搭乗員自らによって「九九式棺箱(かんばこ)」などと蔑称(べっしょう)されたのに対して、早くから航空機の防御防弾の重要性を理解していた陸軍では、低空で地上襲撃を実施する機体という点を考慮し、本機に十分な防御防弾を施していた。
さらに環境的に劣悪な最前線の簡易飛行場での運用も考慮した設計だったので、構造的に堅牢で整備や再装備も容易。太平洋戦争中盤に至って連合軍側に高性能な新型戦闘機各種が出現すると、九九式襲撃機部隊も大きな損害を蒙(こうむ)るようになったが、超低空飛行で敵戦闘機の攻撃を回避しつつ、味方地上部隊への航空支援に活躍している。
また、戦争末期には洋上での対潜哨戒(たいせんしょうかい)にも従事しており、九九式襲撃機が1945年8月の停戦直前に沈めた潜水艦ブルヘッドは、第二次大戦で敵に撃沈された最後のアメリカ軍艦となった。
なお、連合軍は本機をMitsubishiの“Sonia”というコードネームで呼んでいた。