九二式戦闘機の発展・改良版として登場:九五式戦闘機(キ10)
戦間期日本戦闘機列伝 第4回 ~零戦、隼へと続く戦闘機開発の足跡~
前回紹介した九二式戦闘機をバージョンアップさせた九五式(きゅうごしき)戦闘機。抜群の格闘戦性能を誇り、日本陸軍最後の複葉機として日中戦争でも大活躍した。

九五式戦闘機。その外観からは、複葉戦闘機としてはいかにも末期の設計という印象を受ける。その優れた運動性と安定性で、ドッグファイト能力は世界屈指といえた。
1932年に九二式戦闘機をものにした川崎航空機に対して、陸軍は同機の後継機の開発を要請した。そこで同社では、同機を手がけたドイツ人航空機設計技師リヒャルト・フォークトの指導を受けつつ、土井武夫技師が中心となって設計を進めた。ちなみにこの2人は、共に九二式戦闘機の設計に携わった間柄であった。
こうして造られた機体計画番号キ5は、陸軍初の低翼単葉戦闘機となった。しかし画期的であるはずのところが、安定性の不良とエンジンの不調にたたられ、陸軍の意向にそぐわなかったため制式化されることなく終わった。
だが、日進月歩の当時の世界の航空事情に鑑みて、早急に九二式戦闘機の後継機が必要であった。そのため陸軍は、川崎と中島飛行機の競合試作で後継機を決めることにした。
中島航空機は、低翼単葉固定脚でアメリカのボーイングP-26ピーシューターに似た、近代的な外観と構造を備えたキ11でエントリーした。
一方の川崎は、前作の当時としてはあまりに野心的な設計だったキ5の失敗を反省して、九二式戦闘機を大幅に改修したキ10の開発に着手した。設計主務者は、九二式戦闘機にもキ5にも深くかかわった土井技師である。
エンジンを水冷のベ式500馬力発動機から、その発展型で、同じ水冷で800馬力級のハ9系エンジンに変更。陸軍がキ5の審査においてことさら安定性と運動性にこだわり、ドッグファイト(格闘戦)能力の高い戦闘機を求めたことを念頭に置き、九二式戦闘機よりもさらにこれらの点に優れた機体とした。
審査の結果、速度性能ではキ11に負けたものの、安定性と運動性はキ10の方が優れていることが判明。ドッグファイト指向が強かった陸軍は、1935年にキ10を九五式戦闘機として制式化した。しかし、敗れたキ11も速度は速かったことから、民間向けの中島AN-1通信機として新聞社などで運用されている。
日中戦争の初期、九五式戦闘機は、中国側に供与されていた同じ複葉のソ連製I-15戦闘機との空戦において、その優れた運動性を発揮して圧勝。複葉戦闘機の主たる戦い方であるドッグファイトを重視した開発コンセプトの正しさを実証した。総生産機数は588機と伝えられる。
なお、九五式戦闘機は太平洋戦争勃発の時点でも一部が練習機として運用されていたため、連合軍は本機をKawasakiの“Perry”というコードネームで呼んでいた。