満州事変に間に合わなかった水冷エンジン搭載機:九二式戦闘機(KDA-5)
戦間期日本戦闘機列伝 第3回 ~零戦、隼へと続く戦闘機開発の足跡~
全金属製のモノコック構造、水冷エンジンの採用など、従来の日本陸軍航空機にない新機軸を盛り込んだ九二式(きゅうにしき)戦闘機。だが先端的な技術は、運用する上でさまざまな問題を発生させた。

九二式戦闘機を前方から見ると、水冷式エンジンを搭載したため独特の形状となった機首のカウリング部分がよくわかる。
陸軍は1920年代後半から1930年代にかけて、急速に進歩を続ける列強の航空機事情に追いつくべく、逐次新型戦闘機の開発を継続していた。だが、当時の日本の航空技術力は世界水準に達しておらず、時には外国からの「助っ人」設計技師や「輸入」航空エンジンの模倣(ライセンス生産)に頼らねばならないという、心許ない状況でもあった。
かような流れの中で、陸軍の次期戦闘機の開発要求に対して、川崎はドイツ系の航空技術を導入することにした。そしてドイツ人航空機設計技師で鬼才と謳われたリヒャルト・フォークトに設計を発注。彼に土井武夫技師をつけて、新型戦闘機の開発が始まったのが1929年であった。なお、土井は後に三式戦闘機「飛燕」やYS-11を生み出すことになる、日本航空界の至宝の1人である。
設計に際してフォークトは、それまで日本では行われていなかった最新技術をいくつか、この新型戦闘機に採り入れた。例えば、胴体を全金属製のモノコック構造としたことや、主翼の桁にジュラルミン材を使用したことなどだ。
また、エンジンもドイツのBMW社製のBMW VI型水冷エンジンを、川崎が国産向けに改良した「ベ式」500馬力発動機を搭載した。1930年7月、この新型戦闘機の試作1号機が完成して試験飛行が開始されると、日本における高度記録や速度記録を更新する高性能ぶりを発揮。陸軍は大いに期待して試作機が3機造られたが、試験飛行が繰り返されるうちに、いくつかの問題点が浮かび上がってきた。
ひとつは強度不足で、別に墜落事故も起こしてしまい、加えてエンジンの信頼性が低く、整備性も良好とは言い難いことが判明。これらの問題の解決に手間取ることになった。いずれも大問題であり、こういった事情から、陸軍航空隊の識者の一部では、本機の実用化は困難ではないかとの判断も囁かれるようになってしまった。
ところが1931年に満州事変が起こると、日本の陸海軍にとって軍備の拡張は急務となり、この新型戦闘機に関しても、一時は開発中止の可能性もあり得たものが一転。問題点を急ぎ解決のうえで実用化に持ち込みたいと考えられるようになった。そこで川崎は陸軍の指示を受けつつ問題点の解決に注力し、1932年10月に九二式戦闘機として制式化されたのだった。だが、結局は満州事変には間に合わなかった。
九二式戦闘機に採用された水冷(液冷)航空エンジンは、一般論として、構造的に空冷星型航空エンジンよりも複雑で精密な加工技術が求められる工程も多く、整備にも、それに即した能力が求められる。だが当時の日本には、水冷航空エンジンの生産や運用に対する素地がほとんどなかった。そのため故障が多発し、稼働率も低くなってしまったという。実はこのエンジンのことも、本機の運用に際してのネックになっていたらしい。
なお、総生産機数は385機と伝えられる。