名称は「装甲車」だがタイヤではなくキャタピラを備える万能小型車:九四式軽装甲車(TK)
日本戦車列伝 第2回 ~国産戦車の開発と運用の足跡を辿る~
イギリス軍の豆戦車を参考に開発された九四式軽装甲車(TK)。偵察、歩兵の支援戦闘、輸送など幅広い任務に対応した小型戦車の実像とは?

日中戦争時、武漢攻略戦で工兵部隊とともに進撃する九四式軽装甲車。兵士たちと比べると、本車がいかにコンパクトなデザインかということがよくわかる。
第一次世界大戦後、日本陸軍はヨーロッパにおける戦訓に基づいて、戦車と装輪式車両の実用化と導入を急速に推進した。そのような流れの中の1930年、イギリスが開発したカーデン・ロイドMk.VIマシンガン・キャリアーを輸入し、実用テストに供した。
カーデン・ロイドMk.VIは、イギリス陸軍では装軌式の汎用牽引車兼機関銃装備車ということから「マシンガン・キャリアー」の名称を付与されていたが、輸出に際しては、あえて「タンケッテ」つまり豆戦車と称された。
小型で単価が安いにもかかわらず、そこそこの武装が搭載できて機械的信頼性が高いカーデン・ロイド豆戦車は、当時、特に戦車の自主開発や国産化に苦心していた国家で好評で、それらの国々では、完成車を輸入するだけでなくライセンス生産なども行われている。
実用テストの結果、やはり、あまりに小型ゆえに装甲厚の強化に限度があり、搭載する兵装にもサイズ的な制限が生じると判明。だがその一方で、主力的な位置付けの戦闘車両、いわゆる「主力戦車」ではなく、各種兵器や補給品の輸送車や、偵察や小規模な戦闘における歩兵の支援といった「補助戦闘任務」に適していると判断された。しかもカーデン・ロイド豆戦車は機械的信頼性が高く整備も容易だった。
このような事情から、日本陸軍はカーデン・ロイド豆戦車を参考にした同格の車両の開発を、その数々の業績から後に「日本戦車の父」として知られることになる原乙未生(はらとみお)に託した。そして1933年3月に、TKの試作名称を付与される試作車が完成。ちなみにTKとは、「特殊牽引車」のローマ字の頭字語とされる。そしてこのことからもわかるように、同車で牽引する物資輸送用トレーラーも同時に開発された。
1934年、TKは九四式装甲牽引車として、また、トレーラーの方は九四式四分の三屯積被牽引車として、それぞれが仮制式化された。
ところが良好な性能と容易な運用性が、陸軍内部で高い評価を受けることになった。そこで1935年に「牽引車」という名称が「軽装甲車」へと変更され、九四式軽装甲車となるのと相前後して、牽引車という「輸送向けの車両」ではなく、軽装甲車という「より戦闘志向が強い車両」として、部隊への配備が進められた。
九四式軽装甲車は、日中戦争で大活躍している。というのも、中国軍には対戦車兵器が少ないことに加えて、前時代的な人力集約型の歩兵主体の軍隊だったため、「戦場を軽快に走り回れる防弾性の高い機関銃陣地」として、「生身」の敵の歩兵や騎兵を圧倒できたからだ。だがその一方で、ごく稀に中国軍が装備しているドイツ製対戦車砲に遭遇すると、容易に撃破されてしまう事態も生じた。
なお、九四式軽装甲車の生産自体は1940年に計843両(異説あり)で終了したが、このように使い勝手に優れていたため、すでに旧式化して非力ではあったものの、太平洋戦争の終結まで第一線での運用が続けられた。