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自走野砲として開発されたが対戦車戦闘に投入:一式七糎半自走砲(ホニI)

日本戦車列伝 第5回 ~国産戦車の開発と運用の足跡を辿る~


戦車のような旋回砲塔を持たないため、機動力を必要とする戦車戦には不向きだが、待ち伏せ攻撃に威力を発揮したのが自走砲だ。太平洋戦争時に日本軍が開発した自走砲の活躍とは?


 

アメリカ軍に鹵獲(ろかく)された一式七糎半自走砲。ご覧の通り、戦車の砲塔を撤去して砲架ごと大砲を載せ、その前部と側面を薄い装甲板で覆っただけというシンプルな構造だった。この防御力の弱さに加えて、戦車のように砲を全周旋回させられないため、機動戦よりも伏撃に向いた車両であった。

 戦車や装甲車の装備数増加にともない、流動的な機甲戦の必要性を認識した日本陸軍は、戦闘のための展開と、移動のための撤収に時間がかかる砲を自走化することで、砲兵を機甲戦に対応させようとした。

 

 そこで1939年から自走砲の研究が開始される。小口径の軽量な砲なら、展開も撤収も比較的容易なうえ短時間で済むため、自走化の対象は中口径以上の砲とされた。さらに、山砲や歩兵砲のように初速が遅く対装甲戦闘に不向きな砲よりも、比較的初速が速いので、徹甲弾(てっこうだん)を用いた対装甲戦闘にも対応できる野砲が着目された。

 

 かくして、九七式中戦車の砲塔を外した車体に、口径75mmの九〇式野砲を砲架ごと載せた自走野砲ホニIが開発された。なお、この自走野砲化にともなって、九七式中戦車では車体前部に装備されていた九七式車載重機関銃は廃止されている。

 

 制式化は1941年で一式七糎半自走砲(いっしきななせんちはんじそうほう)とされたが、簡単に言ってしまうと「自走砲」は砲兵の装備であり、戦車兵の装備は「砲戦車」と称される。ホニIは開発当初から対装甲戦闘が意識されていたため、一式砲戦車の別名でも呼ばれることになった。

 

 しかし生産能力の不足により、量産開始は制式化の約1年後の1942年からで、太平洋戦争全期間を通じて、ホニIの生産数は約5060両と考えられている。

 

 75mm級戦車砲を搭載するアメリカのM3ジェネラル・リー/グラント、M4ジェネラル・シャーマンの両中戦車が出現すると、九七式中戦車では荷が重くなり、一式七糎半自走砲には、対戦車自走砲としての期待が寄せられた。だが生産の開始が遅れたことと、連合軍が制空権と制海権を確保した状況下、太平洋島嶼部に展開した戦車部隊に本車を無事に送り届けることは至難で、結局、その実力を発揮する機会にはほとんど恵まれなかった。

 

 しかし戦車第2師団機動砲兵第2連隊が装備したわずか4両の一式七糎半自走砲は、1945年のフィリピン・ルソン島における戦いで勇戦。もし太平洋島嶼部に展開した日本軍が相応の数の本車を装備していたなら、もっと有利にM4中戦車と戦えたものと思われるだけに、生産開始が遅く、それにともなう配備開始も遅れたことが、かえすがえすも残念といえる。

 

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白石 光しらいし ひかる

1969年、東京都生まれ。戦車、航空機、艦船などの兵器をはじめ、戦術、作戦に関する造詣も深い。主な著書に『図解マスター・戦車』(学研パブリック)、『真珠湾奇襲1941.12.8』(大日本絵画)など。

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