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世界的にも珍しい空挺戦車へと転用された二式軽戦車(ケト)

日本戦車列伝 第8回 ~国産戦車の開発と運用の足跡を辿る~


太平洋戦争中の日本陸軍内部には軽戦車を改良し、空挺作戦用の戦車として運用する野心的な構想があった。37mm対戦車砲を搭載した二式軽戦車(ケト)の誕生秘話とは?


終戦直後に連合軍によって撮影された二式軽戦車。武装解除によるものか、左に向けた砲塔防盾基部から一式37mm戦車砲がそっくり外されている。

 1935年に制式化された九五式軽戦車は、運用期間が長期化するにつれ、その搭載砲である九八式37mm戦車砲の威力不足が問題となっていた。また、走行性能や不整地踏破性能などの向上も望まれるところだった。

 

 これを受けて、東京自動車工業において九八式軽戦車(ケニ)が開発されたが、搭載する一〇〇式37mm戦車砲の威力は九八式37mm戦車砲とさほど変わらないうえ、走行性能などにも不満が残った。それでも113両(異説あり)が生産されたものの、新たな軽戦車の開発が進められることになった。

 

 国産の37mm戦車砲は、ドイツやこのドイツ製を参考にしたソ連とアメリカの37mm戦車砲に比べて威力面でワンランク劣っており、陸軍内の戦車を重視する士官の一部が、海外からのこういった情報に接して、国産37mm砲の威力不足を懸念していたとも伝えられるが、これは陸軍全体の問題とはされていなかったようだ。

 

 そこで、この九八式軽戦車を改良することにより、後継の軽戦車の開発が行われた。この新しい軽戦車は、一〇〇式37mm戦車砲に代えて、新たに開発された、より高威力の一式37mm戦車砲を搭載した。

 

 新しい軽戦車は、1942年に二式軽戦車として制式化された。ところが戦局が悪化しつつあったため、航空機や艦船の生産が優先され、戦車を含む地上兵器全般の生産は後回しにされた結果、本車の生産は1944年にやっと開始されたと伝えられる。

 

 実は二式軽戦車はその開発中に、本車を大型双胴輸送用グライダー「ク7まなづる」に搭載し、敵地へと空挺侵攻させる案が固まった。そのため一説では、太平洋島嶼部における連合軍の上陸作戦に反攻する戦力として、戦争後半に至って改めて生産が進められたともいわれる。

 

 なお、このような空挺戦車で第二次大戦中に実戦に投入されたのは、最初から空挺部隊用として開発されたアメリカのM-22ローカストと、軽戦車として開発されたものの、ハミルカー・グライダーに搭載できたため空挺戦車に転用されたイギリスのテトラークの2車種だが、二式軽戦車は、後者と同様の経緯で空挺戦車化されたことになる。

 

 なお、二式軽戦車は34両(異説あり)が生産されたといわれており、結局、そのすべてが日本本土決戦に向けて内地で温存されていたようだ。

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白石 光しらいし ひかる

1969年、東京都生まれ。戦車、航空機、艦船などの兵器をはじめ、戦術、作戦に関する造詣も深い。主な著書に『図解マスター・戦車』(学研パブリック)、『真珠湾奇襲1941.12.8』(大日本絵画)など。

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