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家康が最も信頼した晩年の腹心 7度主君を変えた男・藤堂高虎

徳川家康・その一族と家臣団 第12回

足軽から主君を変えるたびに出世した大大名

戦国武将の中でも、屈指の築城技術を持っていた高虎。宇和島城、今治城、伊賀上野城などで、その手腕を発揮した。イラスト/さとうただし

 藤堂高虎(とうどうたかとら)は、豊臣秀吉の時代に頭角を現し、秀吉によって取り立てられた大名の一人であるが、関ヶ原合戦を機に豊臣系から徳川系に乗り換えを図り、徳川政権の樹立に向けて誰よりも働いた。生涯に7人の主君に仕えたという高虎には「世渡り上手」「日和見武将」「風見鶏大名」などの酷評も付いて回るが、その実、徳川家康に最も信頼・評価された武将であったことも事実である。

 

 家康は臨終にあたって「もしも天下を揺るがすような兵乱が起きた場合には、先ず藤堂を、次に井伊を以て将軍家の先陣とするように」と遺言した。藤堂とは高虎であり、井伊とは井伊家(直政・直孝)を指す。井伊家は徳川譜代だが、藤堂家は外様である。にもかかわらず家康は、藤堂をナンバーワンの位置に置いた。高虎の実力ゆえのことである。

 

 高虎は弘治2年(1556)近江国藤堂村で誕生。父は虎高・母は虎。両親が名前に「虎」を持つという変わり種ともいえる。足軽から出発した人生は、浅井長政・阿辻貞征(あつじさだゆき)・磯野員昌(いそのかずまさ)・織田信澄(おだのぶすみ)・羽柴秀長・豊臣秀吉と主君を変えるたびに出世を果たしていく。最後に仕えたのが家康だが、家康との絆は天正14年(1586)、京都二条に秀吉から命じられて高虎が造営した家康の邸宅がきっかけになった。築城術に優れていた高虎は、家康が感嘆するほどの防衛に秀でた屋敷を作り上げ家康から感謝され、信頼の一歩を得た。 

 

 秀吉が没した後、石田三成との確執を抱えた家康を救い続けたのも高虎であり、関ヶ原合戦を前にした下野小山の会議で東軍をひとつにまとめ上げたのも高虎の手柄であった。さらに小早川秀秋(ひであき)・脇坂安治(わきざかやすはる)・朽木元綱(くつきもとつな)らの寝返り工作も高虎によって為された。

 

 関ヶ原では西軍の大谷吉継(よしつぐ)を討ち取ったのも高虎の甥・仁右衛門であったが、吉継の重臣・湯浅五助との約束を守って吉継の首の在処を最後まで言わずにいた。家康は、怒ることなく仁右衛門の行動を褒めた。高虎は、吉継と五助の墓を現地に建立している。

 

 高虎は、戦後に伊予宇和島8万石から伊予半国20万3千石を与えられ、今治城を築城した。その他、高虎の普請(助役含む)による城は宇和島城・伊賀上野城・安濃津城・和歌山城・聚楽第・伏見城・江戸城・篠山城・亀山城・大坂城(再建)・二条城などがある。

 

 慶長13年(1608)伊予から伊賀に転封となった高虎は、伊勢などの一部も与えられ、最終的には32万石までを領する大大名になる。この間に、高虎は家康・秀忠の願いを具体化するための後水尾(ごみずのお)天皇への秀忠の娘・和子の入内にも苦心して実現させている。

 

 高虎は寛永7年(1630)江戸藩邸にて死去。75歳であった。その死後に改められた高虎の身体は、空く場所がないほどの疵痕(きずあと)で満ち、右手の薬指・小指は失われ、左手の中指は1寸(約3・3センチ)短かったという。いずれも戦傷であった。天海(てんかい)僧正は「毅然として寒風に立ち尽くす松の大木」に高虎をなぞらえて「寒松院」という法号を贈っている。高虎の墓地は、今は上野動物園の一角になる場所に立つ。

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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