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徳川四天王 家康の頭脳として尽力した謀臣・本多正信 (ほんだまさのぶ)

徳川家康・その一族と家臣団 第7回

帰り新参の正信だが家康とは「互いに打てば響く」間柄

 

嫡子の正純も徳川家康の側近として暗躍。幕政で権勢を振るった。イラスト/さとうただし

 酒井家に2つの流れがあるように、本多家にも2つの流れがあった。本多正信の「本多家」は忠勝の本多家と祖先は同じながら、8代前の本田助政の長男・定通以来「平八郎」を、二男・定正以来「弥八郎」をそれぞれ名乗るようになった。忠勝は「平八郎」系であり、正信は「弥八郎」系である。

 

 正信は天文7年(1538)生まれ。家康より4歳年長である。正信の祖父・正定は家康の祖父・清康に仕え、父・俊正は家康の父・広忠に仕えた。正信は幼い頃から家康(元康)に仕えてきた。

 

 ところが永禄6年(1563)、熱心な一向宗の門徒であった正信は、妻子を捨てて三河・一向一揆に加わって家康に反旗を翻した。一揆が家康に降伏すると、正信は大和・信貴山城に松永弾正久秀(まつながだんじょうひさひで)を頼った。この時に久秀は正信の中に自分と同じ臭いを嗅いだらしく「徳川家の武士は武勇の者が多いが、正信は強からず、柔らかならず、また卑しからず、世の常の人ではないようだ」と評した。正信の中にある謀臣としての資質を見抜いたのであろう。

 

 その後、久秀のもとを辞した正信は、加賀・越後方面まで足を伸ばし、諸国を流浪する中で見聞を広め、人を見る目・世間を相手にする気概を養った。こんな正信に救いの手を差し伸べたのが、大久保忠世(おおくぼただよ)であった。忠世は正信の留守中、その妻子を引き取って養い、永禄12年(1569)には、正信と家康との間を取り持った。「弥八郎(正信)の才能は埋もれさせてしまうには惜しい」というのが、その理由であった。正信が家康に詫びを入れて、再仕官が許されたのは正信32歳の時であった。

 

 帰り新参としての正信は、鷹匠として40石を与えられた。姉川合戦では功を焦って深入りし、捕らえられそうになったり、長久手合戦でも積極的には参戦しなかった。つまり、正信は武官でなく文官として適任である、ということであった。しかし、その後の徳川家の行政に関しては、目覚ましい力を発揮した。武功派からは「佐渡の腰抜け」「腸の腐った男」などと陰で罵られたが、家康は吏僚(りりょう)としての正信の実力を見極めて使った。ここに家康の目の確かさがある。  

 

 家康・正信は「互いに打てば響く」間柄になっていった。そして、家康が何かを問い掛けても反対の意見の時には居眠りを装い(狸寝入り)、賛成の時には大いに褒め上げるというやり方をした。正信の狸寝入りは、家康にも側近衆にも定評があるやり方だった。

 

 正信は従五位下佐渡守に任じられている。謀臣として、関ヶ原合戦・大坂の陣にも参戦して家康に天下をもたらし、徳川家の磐石を作り上げた。元和2年(1616)4月、家康が没した50日後、正信も後を追うように病死した。正信は79歳の長命を生きた。

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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