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かつては周囲8kmもある巨大な城だった岩槻城【さいたま市岩槻区】

城ファン必読!埋もれた「名城見聞録」 第1回


日本にはおよそ3万もの城があるといわれる。いまだに華麗な天守を誇り、世界中の人々を魅了する城は人々を集め、いわゆる「名城」と呼ばれ、人気観光地となっている。しかしながら、かつては壮大な敷地と巨大な建物を有しながら、歴史を経て、埋もれてしまった城もある。ここでは、歴史学者で城の研究を続ける小和田泰経氏に「歴史に埋もれた名城」の見どころや歴史を掘り起こしてもらう。


 

■太田道灌によって築かれ、上杉、北条、天下人の手にわたった岩槻城

 

 城は、要害な城地を選定する地選、その城地に曲輪と呼ばれる平坦な区画を配置する縄張(なわばり)、曲輪(くるわ)の周囲に堀を掘って土塁・石垣を構築する普請(ふしん)、土塁(どるい)・石垣の上に天守・櫓(やぐら)や門などの建造物を設ける作事という4つの要素によって構成されている。一般的に呼ばれる名城とは、地選・縄張・普請・作事のすべてにおいて優れている城のことをいう。

 

 現在でも、この4つの要素が残っている城が名城だとみられている。そのため、かつては名城と呼ばれる城だったとしても、建造物が解体されるか朽ち果てるなどしてなくなり、土塁・石垣が崩されて堀が埋められてしまったような城は、残念ながら現在では名城と呼ばれることはほとんどない。ここでは、文字通り、歴史に埋もれてしまった名城を掘り起こし、紹介していきたいと思う。

 

 今回紹介したいのは、埼玉県さいたま市岩槻区に存在していた岩槻(いわつき)城である。戦国時代までは、岩付城と表記されていた。明治維新後に廃城とされるまで残り、現在は、城域の一部が岩槻城址公園となっている。

 

岩槻城_土塁

岩槻城 土塁
堅固な二重の土塁の間に空堀が残る。堀底からは障子堀も検出された。現状では土砂が堆積しているが、かつての土塁はさらに高く、空堀はさらに深かったとみられる。

 

 かつての岩槻城は、本丸を中心とする複数の曲輪から構成され、自然の沼を利用した広大な水堀に守られていた。しかしながら、近代化のなかで沼が埋められたため、曲輪のほとんどが消滅してしまったのである。

 

 肝心の本丸は、現在、住宅地となっている。地名からして「本丸」なので、すぐにわかる。岩槻城址公園となっているのは、本丸の南に存在していた曲輪群の跡で、当時は新曲輪・鍛冶曲輪と呼ばれていた。ただし、城址公園とはいっても、遺跡としてではなく、野球場・運動場・テニスコート・ピクニック広場などとして利用されるにとどまっている。

 

 岩槻城がいつ築かれたのかについてはよくわかっていない。室町時代の関東の歴史を記した『鎌倉大草紙』によれば、長禄元年(1457)に扇谷上杉(おうぎがやつうえすぎ)氏の上杉持朝(もちとも)が家宰の太田道真とその子・道灌(どうかん)に命じ、江戸城・川越城とともに築かせたという。

 

 このころ、扇谷上杉氏は、関東管領を世襲する山内上杉氏とともに、下総(しもうさ)の古河に本拠をおく古河公方(こがくぼう)と対立していた。そうした状況を考えると、扇谷上杉氏が岩槻に城を構えたとしてもおかしくはない。なぜなら、岩槻城は台地の東端に築かれており、東北方向に位置する古河を扼す要衝(ようしょう)になっていたからである。

 

 ただ、築城者と年代については異論もあり、近年は文明10年(1478)に忍城(おしじょう)主・成田正等(なりたしょうとう)が築城したとの説も有力視されている。この説によれば、成田氏が築いた岩槻城を太田氏が奪取したということになるのだが、そもそも成田氏は古河公方に味方しており、古河方面を押さえるのに有利な岩槻に城を築くというのもなかなか考えにくい。地勢を考えれば、岩槻城は扇谷上杉氏によって築かれたとみるべきではないだろうか。

 

 それはともかく、こののち、太田道灌の実子・資康(すけやす)の系統が江戸城主となる一方、養子・資忠(すけただ)の系統が岩槻城主になった。太田道灌は主家にあたる扇谷上杉氏によって暗殺され、江戸城の太田氏はやがて相模(さがみ)を領する北条氏に従ったが、岩槻城の太田氏は徹底して北条氏に対抗している。関東の諸城が北条氏に攻略されるなか、岩槻城は扇谷上杉氏の拠点として守り続けられた。

 

太田道灌

太田道灌
川越市に立つ銅像。上杉家の傍流にすぎなかった扇谷上杉家に繁栄をもたらした太田道灌。江戸城の築城者としても知られる。

 

 そのようなことが可能だったのも、岩槻城が天然の要害であったためである。岩槻城は台地の東端に築かれており、その台地の直下には、北から東にかけて荒川(現在の元荒川)が流れていた。そのうえ、台地とつながる南西方向を除いては幅広の沼に囲まれており、この沼が内堀の役割を果たしていたため、近づいた敵も容易に侵入できない。

 

 岩槻城の攻略を図る小田原城の北条氏康(ほうじょううじやす)は、徹底抗戦を続ける太田資正(すけまさ)の子・資房(すけふさ)を引き込んだ。その後、資房は父を追放すると、北条氏康の偏諱(へんき)を賜(たま)って氏資(うじすけ)と名乗っている。こうして、岩槻城は北条氏の支城となったのだった。

 

北条氏康

北条氏康
「相模の獅子」と呼ばれた戦国時代屈指の名将。甲斐の武田信玄や越後の上杉謙信と激闘を演じた。(「太平記英勇伝 北条左京大夫氏康」/東京都立中央図書館蔵)

 

 戦国時代における岩槻城の縄張については、史料が残されていないため、はっきりしたことはわからない。築城当初はおそらく、本丸・二の丸・三の丸から構成される主郭部ぐらいの規模であったのだろう。主郭部の周囲は、幅広の沼が内堀となっており、あたかも沼に浮かんだような形になっていた。岩槻城址公園となっているあたりは、北条氏が豊臣秀吉と対立した段階で、馬出をもつ新曲輪と鍛冶曲輪に改修されたとみられる。

 

 また、秀吉との戦いを想定していた岩槻城には、城下を土塁と堀で囲む惣構(そうがまえ)も設けられていた。こうした惣構は全長8kmにも及んでおり、岩槻城では「大構」と呼んでいる。

 

 天正18年(1590)、豊臣秀吉による小田原攻めが行われたとき、岩槻城主の太田氏資は北条氏の本城である小田原城に詰めており、重臣に2000余の兵を預けて守らせていた。そこに、浅野長政(あさのながまさ)らが率いる2万余の大軍が攻め寄せたため、結局、岩槻城は降伏開城している。その後、徳川家康の関東入国にともない、高力清長(こうりききよなが)が2万石で入城し、江戸時代は譜代大名の居城になった。

 

岩槻城_菖蒲池

菖蒲池
現在は八ツ橋という橋がかかり、水面には睡蓮が浮かぶ景勝地となっている。春には桜が咲き誇り、絶景である。

 

 明治維新後に、広大な水堀が埋められてしまったため、現在の岩槻城に、かつての面影はほとんどない。岩槻城址公園に残る「菖蒲池」は、岩槻城を囲んでいた広大な水堀の一部である。また、この「菖蒲池」の周囲には、土塁が残されており、今は埋め戻されているものの、堀底に障壁を設けた障子堀も見つかっている。障子堀は北条氏が好んで用いた築城技術であったから、岩槻城の堀も、豊臣秀吉の小田原攻めに際して改修されたものと考えられる。

 

 江戸時代から同じ場所に残る建物は、残念ながら岩槻城には存在しない。しかし、「黒門」の名で親しまれている長屋門と「裏門」と呼ばれる薬医門が移築されている。どちらも、もともとの場所は不明であるが、建物をイメージするには大変に役立つ。

 

黒門
岩槻市指定 有形文化財。城内での本来の位置は不明だが、三の丸藩主居宅の長屋門の可能性が高い。廃城後、浦和に移され、埼玉県庁正門などに利用されたが、昭和45年、岩槻公園内の現在地に移築された。

 

 このように、破壊が進んでしまっているため、岩槻城が一般的に名城とみなされることは難しいかもしれない。しかし、わずかに残る遺構だけみても、地選や縄張に優れた名城であることは疑い得ないだろう。

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小和田泰経おわだ やすつね

大河ドラマ『麒麟がくる』では資料提供を担当。主な著書・監修書に『鬼を切る日本の名刀』(エイムック)、『タテ割り日本史〈5〉戦争の日本史』(講談社)、『図解日本の城・城合戦』(西東社)、『天空の城を行く』(平凡社新書)など多数ある。

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